歪曲した円の底
14
異変が訪れたのは、あいつがいなくなって一ヶ月が過ぎた頃だった。
相変わらず添島奈々美は行方不明で、時折刑事が話を聞きにくるが、こちらが慌てふためくような状況にはならなかった。捜査は進展せずといった様子だ。
「ちょっと松下さん」
私のデスクに歩いて近づいて来たのは越智さんだった。「何ですか?」
「黒谷君と私は仕事で一緒にいるの。それを僻んで嫌がらせするの、やめてくれる」
それだけ吐き捨てるように言って、自分のデスクへ戻って行く。あまりの出し抜け振りに声が出なかった。嫌がらせ? そもそも越智さんとは殆ど喋った事もないような間柄だ。嫌がらせだってした覚えはない。
隣に座る中野さんが「何やったの、松下さん」と問うが、全く心当たりがないのだ。
「何やったんだろ、私......」 中野さんは明らかに怪訝な表情で私を見遣り「何そのすっとぼけ感」と少し身体を引く。
「嫌がらせはやめろって、言うんだよね。越智さんが」
黒谷君はちらっと私に視線を向け、「でも何もしてないんだろ」というとまた図面に目を落とす。
「してないけど。どんな嫌がらせなのかも分からないまま席に戻っちゃうからさ。今度言われたら私が何をしたの、って聞いてみるか」
再び図面から顔をあげた黒谷君は「それはちょっと」と言ってひと呼吸置いた。
「やめた方がいいんじゃない? 徹底的に無視すればいいよ、楓は何もしてないんだから」
この世の中で私の味方は彼だけでもいいとさえ思った。楓は何もしてないんだから。そう言い切ってくれる言葉が嬉しくて、私は笑みを浮かべた。
「そうだよね、どんと構えてたらいいんだよね」
しかしその後も何度か、同じようにして越智さんが私に苦言を呈しにくる事があった。
「証拠でもあるの?」
そう問うと彼女は口ごもる。証拠はないらしい。どういう訳か、状況が私と添島の関係に酷似している事に気付き、胸に何かがつかえるような感覚に見舞われた。彼女は課長に嫌がらせについて話したらしく、私は課長に呼び出され、事実関係を問いただされた。
「私は何もしていません。一体嫌がらせって何なんですか?」
課長に聞く分には害はないだろうと思い、そう問う。
「まぁいくつかあるみたいだけど、酷いのはカッターの刃が入った封筒が置かれてたっていういたずらだな」
課長の言葉を最後まで聞く事なく私は目眩に襲われ、その場にへたり込んだ。
「どうした?」
息も絶え絶えに私は声を絞り出した。「私も、されたんです、それ」
「誰に?」
「多分、添島さん......」
あの時確実に息の根を止め、あの柔らかな土の下に埋めた。確実にやった筈だ。それがなぜ今になって、添島の嫌がらせが甦っているのか。しかも今度は、越智さんに。私はデスクに手をつきながらやっとの思いで自席に辿り着くと、暫く額に手を当てて目を瞑っていた。確認しなきゃ。あそこから、添島が這い出ていない事を。
週末、黒谷君からの誘いを翌日に回してもらい、土曜の夜にあの地を訪れた。あの日と同じような暗闇で、あの日よりも格段に冷たくなった空気を吸い込みながら、あの三角錐を探した。
「あった」 ほっと胸を撫で下ろした。そこはあの時のまま、周囲より少し膨らんでいて、その真ん中に三角錐の石が置いてある。掘り返された形跡はない。試しに足元の方を少し掘ってみると、忌々しいピンク色の鞄が見えた。すぐに土で覆い隠す。
翌日の夜、黒谷君は私の家に来た。簡単に作った夕飯を、テーブルに並べて食べる。
「この前の越智さんの嫌がらせの件ね、私と同じような事されてるみたいなの。カッターの刃」
煮物を口に運びながら彼に視線をやると、一瞬、彼の顔が強ばった。
「同じって、何、じゃぁいなくなった奈々美が嫌がらせしてるとか?」
「分からないけど、誰がやったかって証拠がないっていうのも、その辺も似てるなって思ってね」
むつりと黙り込んだまま、ご飯を口に運ぶ。味覚が欠落したように、何も感じない。突然、黒谷君は大きな声で「大丈夫だよ」と言ってカラっと笑った。その笑顔が、酷く場違いな気がしてならない。
「とにかく楓は何もしてない。それでいいじゃん」
その、場違いな笑顔が強引に私の苦悩を一掃しようとするのがどうにも不愉快で、私は眉根を寄せたままご飯を突いた。まだ何か起きる気がする。私は不安なまま、彼に抱かれ、月曜日を迎えた。