小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ディレイ

INDEX|34ページ/39ページ|

次のページ前のページ
 


     (一)

 椿山智子は深呼吸する。
 秋から冬に変わる、十一月に特有の、もの悲しい風のにおいがした。一瞬、興奮していた気持ちが寂しい気持ちにすり替わった。
 ああ、あれね。
 売れない頃から応援していた芸能人がブレイクして、テレビにもよく出るようになって、晴れがましい嬉しさが沸き上がる反面、遠くに行ってしまったような、置き去りにされてしまったような虚無感に襲われるファン心理。
 智子はくすりと笑うと、吉祥寺の街を歩き出した。
 沢山のカップルとすれ違いながら、サンロードに入っていく。ダイヤ街の辺りに差し掛かると、開店前の『不思議草』を遠目に眺めながら歩いた。
 不思議草。
 その名の通り、不思議な場所だ、と智子は思う。大事な人は、全てここで出会った。
 サンロードを抜けて五日市街道に出た。開けた景色に、空を見上げる。青と白のグラデーション。奥行きのある雲の大群。空らしい、実に空らしい空。
 智子はスマートフォンを上空に向けた。カメラ機能を使って写真を、そして撮った。
 今日は、いい天気だ。

     (二)

「ごめんね、御前くん。こんな日に呼び出して」
 東急百貨店の裏にあるスターバックスのオープンテラスは五十席程ある。奈津紀を見つけるのにやや時間を要した。「いいけど」と慌ただしく鞄を椅子に置く。
「珍しいね」
「どうしても今日、御前くんに話さないといけないことがあって」
 響介と何かあったのだろうか。嫌な予感がして、けれどそれを表に出してしまうと、話しづらい雰囲気を作ってしまうような気がして、私は空気が読めません、といった具合に、うんうん、と軽く頷く。それからレジカウンターを指差した。
「コーヒー買ってくる」
「うん」
 はずんだ声が返ってくる。安堵しかけて、けれど思う。彼女もまた明るい風を装っているのだろうか。
 今日話さないといけないこと。今日はなんの日だろう、と荘太は考える。いや、考えるまでもない、とすぐにその疑問は打ち消してしまう。こんな特別な日はないのだから。だから悪い話であるはずがない、と思う一方、だからこそ悪い話なのだとも思う。皆目見当がつかない。
 荘太は錯綜する予測とホットのラテを持って、奈津紀の元へ戻った。荘太が椅子に座ると、奈津紀は唇を引き結んだ。ややあってから、「実はね」と口を開いた。
「私、パニック障害なんだ」
 鏡があるわけでもないのに、自分の間抜けな顔が鮮明にわかった。荘太は、ぐっ、と両目を閉じた。
「パニック障害は、西川さん、でしょ?」
 難解な計算問題を前に、混乱する一歩手前でなんとか踏みとどまろうとする独り言のような声を吐き出す。
「私もそうなの」
「……どういうこと?」
 荘太はゆっくりと目を開く。いつもと変わらない奈津紀がそこにはいた。
「高一の時に彼氏ができたんだ。同じテニス部で、一年先輩の人だったんだけど、なんだかすごく大人で、優しかった。部活が終わるといつも一緒に下校して、それがすごく幸せで、高校生活ってなんて素晴らしいんだろう、って思ってた」
 荘太は静かに、うん、と頷いた。話の内容とは裏腹に、奈津紀の表情は曇っていた。
「それが二年生の二学期の始業式。その日は夏バテ気味で朝から体調がよくなかったんだけど、気持ち悪さが本格的にまずいレベルになって、表彰式の途中で体育館を抜け出してトイレで吐いたんだよ。だけど一向に治まらなくて、一時間くらいずっと吐いてた。吐くものがなくなっても、ずっと」
 ごめんね、汚い話で、と奈津紀は胸元で両手を合わせた。荘太はかぶりを振る。
「どうしようもなくて早退して、だけど家で横になってたら回復したの。だから次の日は普通に登校したんだけど、朝のホームルームが始まると、また気分が悪くなって、また早退。それで、その次の日から学校に行けなくなった」
「行けなくなった……?」
「うん。玄関を出ようとすると気分が悪くなるようになっちゃって。外出できないわけじゃなかったんだけど、学校に行こうとすると駄目で。心配したお父さんがいろいろ調べてくれて、それで一週間後に心療内科に行ったの。そこで言われた。『パニック障害ですね』って」
「そうなんだ」
 パニック障害なんだ。頭に入れようとするが、上手く認識してくれない。それもそのはずだ。奈津紀はそんな素振りを一切見せたことがない。元気な女の子という印象しかないのだ。
「今も、そうなの?」
「うん」
「全然知らなかった」
 ごめんね、と再び奈津紀は謝った。今度は愛らしい仕草はなく、ただ俯いた。
「心療内科で処方された薬のおかげで、不登校は免れたんだけど、それでも気分が悪くなって早退する日が多くなって、それで私はテニス部を退部したんだ。彼氏と一緒に下校することはなくなったし、デートもドタキャンしたり、途中で帰ったりするようになって。彼氏には言ったんだよ、パニック障害っていう病気なんだ、って。最初のうちは気遣ってくれてたんだけど、まともに会えない日が続くうちに段々冷たくなっていって、遂に怒られたんだ。『根性がない』って」
「…………」
「私ね、意外に体育会系で、大抵のことは気合いでなんとかなると思ってるの。だけどパニック障害だけはどうにもならないんだよ。やっぱり精神を、根底の部分をやられちゃうから。それでも少しでも普通に過ごそうって頑張ってただけに、その言葉がすごくショックで。それからはもう誰にも話せなかった。──黙ってて、ごめん」
「そんな言葉、気にしなくていいのに。その人は自分のことしか考えていない」
「それでも私は好きだったんだ」
 そう言って、奈津紀は苦笑いした。
「彼氏は卒業して明治大学に進学して、一年後、追いかけるように私も東京へ。そのまま埼玉の実家にいるとなにもしないニートになっちゃいそうで、働かざるを得ない状況に飛び込んだっていうのもあるんだけど、やっぱり彼氏が東京にいたからっていうのが大きかったと思う」
 奈津紀が間を置いたので、荘太はコーヒーを一口飲んだ。既に冷めていて、ぬるかった。
「それから一年後──、つまり去年なんだけど。地震があったでしょ? ちょうどその頃、彼氏がね、引っ越したの。三年生になるとキャンパスが変わるとかで。だけど新しい住所を教えてもらえなかった。電話も、繋がらなくなった。ああ、終わったんだ、って思った」
「そんな無責任な別れ方って……」
「でも、彼氏が上京してからほとんど音信不通だったんだよね。会う時は向こうから連絡が来た時だけで、しかもエッチしておしまい、みたいな。多分、東京で新しい彼女ができて、私は都合のいい女になってた。──そんないいもんじゃないか。セフレだね」
「それでも、好きだったの?」
「うん」
 えー、と心の中で叫ぶ。ひどい男だ、と荘太は憤慨する。
「西川さんとそんなのを一緒にしちゃ駄目だよ。それにパニック障害のことは誰よりも理解しているはずだし、話すべきだよ」
 つい語調を荒げる。奈津紀は目をそらし、「それが……」とばつの悪い表情を見せた。
「六月に──、あのライブの日にね、ばれちゃったんだ。発作でぐったりしてるところを見つかっちゃって。それから、ちょっと険悪なムードになって……」
「最初に話すべきだったんだ」
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝