ディレイ
「なんかね、ベースの人と二人で吉祥寺で打ち上げするみたい。それで、ベースの人が吉祥寺のヨドバシ見てみたいんだって」
「そうなんだ。でも間に合わないんじゃないかな。すぐに出られるわけじゃないんでしょ?」
「そうだね。無理っぽい」
気付けば、高円寺駅に随分近付いたようで、点々と立ち並んでいた商業施設が途切れることなく並んでいる。二人が歩く歩道の反対側にある居酒屋。そこからサラリーマン風の二人の男性が出てきた。各々やや上方をきょろきょろと見回すと、早足で駅の方に歩き始めた。怪訝に思い、やや上方を見やる。店のネオンの光の中に、きらきらと雨が浮かび上がった。「あれ?」と荘太は両手をかざす。
「今日って雨の予報じゃなかったのに」
「きっとキョンくんがライブしたからだよ。超雨男だもん。この前もね、御茶ノ水に出掛けた帰りに井の頭公園に寄ってボートに乗ったんだけど、それまで晴れてたのにボートに乗った瞬間から雲行きが怪しくなってきて、池のど真ん中で雨に見舞われたんだよ。もうパニ──」
唐突に話が途切れた。「ん?」と奈津紀の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「ううん。──ほら、もうすぐ駅だよ。走ろう」
小雨の降る中、荘太と奈津紀は高円寺駅に駆け込んだ。
総武線、三鷹行きの電車は混んでいなかった。土曜日は中央線の電車が高円寺には止まらない。そのため、乗れる電車は総武線のみとなり、終電が近付いているということもあって、満員電車を覚悟していたのだが、立っている人は数えきれる程度だった。
「トモちゃんのどういうところが好きなの?」
正面に立つ奈津紀が悪戯っぽい上目遣いでこちらを見た。
殴られたようなショックが全身を貫いた。嘘がばれた子どものように心臓の音が早まる。
荘太が智子を好きだという前提の質問。えっ。えっ。頭の中が同じリアクションを繰り返す。
「──どういう意味?」
喉の奥から声を搾り出す。出来の悪いアンドロイドのような口調になった。奈津紀は困った風な顔をした。
「みんな知ってるよ」
「みんなって……?」
「キョンくんも、それからトモちゃんも」
何故そんなことになっているのだろう……。誰にも話していないのに……。
『わかりやすいんだよ、お前は。毎日毎日机にかじりついて、寮の連中とも関わらないお前が、最近になって急に出掛けることが多くなった。……女だろ?』
ああ、と右手で顔を覆う。ずっと智子に迷惑を掛けていたのか? 自己嫌悪が破竹の勢いでこみ上げてくる。
何をやっているんだ、僕は……。
荘太は高校二年生の夏の廊下を思い出す。休憩時間、トイレに行って教室に戻ろうとした時だった。
『今日また奴に話し掛けられたんだけど』
『御前? なにいい気になってんの、あいつ』
教室の中から聞こえる女子の声。一年生の時から同じクラスで、ずっと好きだった新井玲奈。二年生になってようやく話し掛けられるようになったその子と、その友達の会話。
教室の中には他にも沢山の生徒がいたが、全ての声を追い抜いて荘太の耳に届き、心をそして貫いた。
廊下では何人かの男子生徒が飛んだり跳ねたりして騒いでいた。開け放した窓から、中庭の木に止まった蝉の声が響いてくる。荘太はどうすればいいかわからず、その場に立ち尽くした。チャイムが鳴るまで、その光景を眺めていた。
「──御前くん?」
「ああ、ごめん。びっくりして。そっか、ばれてるんだ?」
全力で平静を装って一息に言った。
「わかるよ、そりゃ」
奈津紀は窓外を見て笑った。
「上村さんに、西川さんに、当人の智子さんにまで。──あっ、じゃあ妹さんにも?」
「妹?」
「上村さんは智子さんの妹に会ったことある?」
「ないよ」
奈津紀が荘太に向き直る。そして言った。
「だって、トモちゃんに妹はいないもん」
(五)
べつに今買う必要はなかった。
そういえば、目覚まし時計の電池っていつ交換したっけ。そんな程度のことだった。
単三乾電池の十二本パックが入った黒い袋を握りしめながら、後悔に苛まれる。
レジに並んでいる時、一瞬胃が圧迫されたような感じがした。一度そうなってしまうと、どんどん不安が膨らみ、果たしてパニック発作に陥ったのだった。
ヨドバシカメラを出たところで、いよいよ吐き気がひどくなり、足枷を付けられたように動きが鈍くなる。センスのないロボットダンスを見せて、やがて止まった。
こんな街のど真ん中で……。
街から離れる体力は既になかった。脇道に逃げ込もうとして、けれど躊躇する。この先は確か、キャバクラや風俗店などが軒を連ねる歓楽街だ。
歯を食いしばって、通りを突き進む。しかし数メートル進んだだけで、もう歩けなくなった。マラソンを走り終えたかのように呼吸が荒い。ちょうど右手に電話ボックスが四つ並んでいた。最後の力を振り絞って端の電話ボックスに入る。扉を閉めると、腰から崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
もしもの時は袋の中に吐けばいい。乾電池を袋から取り出して地面に置いた。
背後の景色をちらと窺う。電話ボックスの中で人が座り込んでいる。そんな不自然な様子にも、街行く人の歩くテンポは変わらない。そうだ、ここは東京だ。きっとみんなには見えていない。「東京は冷たい」と言われる理由はこういうところだろうな、と思う。東京の人は東京にいることを選択した人が多い。彼らには目標があり、生きることに精一杯だ。冷たいのではなく、忙しいのだ。
ふう、と息を吐き出す。
それにしても、今年何度目のパニック発作だろうか。一度目は確か、スーパーだった。晩ご飯の買い物に行った時だ。二度目は御茶ノ水に行った日。特に帰りの電車はしんどかった。三度目もスーパーで。やはり晩ご飯の買い物をしている時に。四度目はバイト先で。あれは引っ越し祝いの日だった。そうすると、これで五度目──。
がたん、と背後で音がした。びくりと肩を震わせた後、おそるおそる振り返った。足。男性が扉を開けて立っていた。
見つかった……。
一体どうすればいいのだろう。一人にしておいてほしいが、「大丈夫です」という言葉はあまりに不自然だ。さりとて「あっち行って」なんて言えない。俯きたい気持ちで、ゆっくりと顔を見上げる。
あれ、この人どこかで──。
「大丈夫ですか、お姉さん」
心配そうな声で言うと、男性は屈んだ。そこで初めて気付いた。男性の後方に、もう一人男性が立っていたのだ。こちらはよく知っている顔。小さく、けれどはっきりと口が動くのが見えた。
「奈津紀?」
ああ、と両手で顔を覆う。この日がやってきた。やってきてしまった。
ぴたんぴたん、と水をはじく、響介の足音が聞こえる。