ディレイ
(一)
上村奈津紀は確信する。自分の判断は間違っていなかった。
埃アレルギーの西川響介が顔面からベッドに倒れ込むのを見て、いかに体力を消耗していたのかを把握する。
響介の深いため息を聞いた後、部屋の隅にある小さな棚からコップを取り出し、洗面所に向かう。そうする必要もないのに、と思いながら、そしてドアを閉めた。
それにしてもラブホテルは落ち着く。昼間ということもあって、現実世界と隔離されたような雰囲気がよりいっそう強く感じられた。そのような場所は他にもある。お洒落なバーだったり、大きな病院だったりがそうだが、その何れにも欠けているものがここにはあるのだ。それを絶対的な安心感だと奈津紀は考える。好きな人と二人きり。余計なものはなにもない。二人のためだけの空間。
いつか酔った勢いで親友の椿山智子にラブホテルがいかに素晴らしいかを力説したことがある。しかし智子は、ふうん、と素っ気ない返事をしたのだった。
『私はなんか嫌。これからエッチします、っていう感じが。そういうのはさ、やっぱり自然な流れでそうなるべきよ』
それ以来、内に秘めてあった想いが一気に膨張する。
「不謹慎だよ」
言語化し、強く言い聞かせるのだが、笑みを禁じ得なかった。
もう大丈夫だ、と奈津紀は小さく頷く。響介は驚くことなく、手を引かれるままに、ここに入った。反応する余裕すらなかったのかもしれないけれど、嗅いだことのない部屋のにおいに別世界の空気を感じながら、もう一度小さく頷く。
水道水を入れたコップを片手にドアを開けると、洗面所に入る前と全く同じ景色がそこにはあった。響介はベッドにうつ伏せになったままだ。
「西川さん、だいじ?」
「ああ、だいじ」
顔だけをこちらに向けて微笑む。それは大丈夫というアピールより、方言を真似してやった、という悪戯っぽい表情だった。もしかして彼は、一ヶ月以上も前のあの電話から、この瞬間をずっと狙っていたのだろうか。
『奈津紀ちゃんは埼玉出身でしょ? 埼玉の方言って何があるの?』
『埼玉というか、うちの地元なんですけど、だいじって言いますね』
『どういう意味?』
『大丈夫っていう意味です』
へえ、と妙に嬉しそうだったけれど、あの間延びした相槌はそういう意味だったのか。
響介がベッドに腰掛ける。それを見て、奈津紀も隣に腰掛ける。水道水の入ったコップを、そして差し出した。
「お水、飲めますか?」
「どうかな」
「まだつらいですか?」
「いや、そうじゃなくて。ラブホのコップって不衛生って言うでしょ?」
「そうなんですか? さっきコンビニで買ったミルクティならあるんですけど、牛乳嫌いでしたよね……」
「奈津紀ちゃん、ミルクティと牛乳は違うよ」
「じゃあ、ちょっと待っててください。鞄に入っているので」
コップをテーブルに置き、部屋の入り口付近に置き去りにした鞄に駆け寄る。その背中に、響介の「ありがとう」という言葉が優しく当たった。
「昔、バイト先の店長に同じことを言ったんだよ。そうしたら、納得いかん、って怒り出してさ。紅茶と牛乳が何対何までやったら大丈夫やねん、とか言い出して。めちゃくちゃ笑った」
響介の笑い声が聞こえる。睨めっこの終わりを告げられたように、奈津紀も笑う。彼は、大丈夫とも言わないし、つらいとも言わない。男の人って大変だな。
「こんなことになってごめんね」
受け取ったミルクティのペットボトルに語り掛けるように、響介は言った。「気にしないでください」と奈津紀はかぶりを振る。
「私は楽しいですよ。西川さんと二人なら、なんでもいいので」
響介はペットボトルを見つめたまま黙っていた。言い回しを間違えたかと不安になって、今言った自分の言葉を反芻する。ややあってから、「よかった」と明るい声が返ってきた。
「ところで、ここはどこ?」
「吉祥寺駅から二番目に近いホテルですよ。名前は……、知らないんですよね。初めて入りましたし、さっきも一目散に部屋を目指していたので確認する余裕がなくて」
「どうして二番目なの?」
「駅に一番近い所は『ロワゾー・ブリュ』といって、その、お高いんです」
言い終えた瞬間、今度こそ失敗したと思った。『ロワゾー・ブリュ』にも行ったことはない。けれど今のは、まるで行ったことがあるような口ぶりだ。わざわざ安い方を選んだ──、事実そうではあるが、変に深読みされるとまずい。違うんです! 『ロワゾー・ブリュ』は吉祥寺では有名な高級ラブホテルなんです! と付け足したかった。思わず視線を落とすと、「なるほどね」とやはり明るい声が返ってきた。
「でも、ここも結構いい感じだよね。せっかくだし、少しゆっくりしていこうか」
安堵の吐息混じりに「はい」と返事をする。
「まだ三時です。約束の時間まで三時間あります」
響介は小さく何か呟くと、ベッドに寝転んだ。ミサキは元気かな、そう聞こえた。
ミサキ……。
その響きに、心は悔しさに支配され、一寸の躊躇いもなく、響介にくっ付くように寝転ぶ。そして切り出した。
「敬語やめてもいいですか?」
(二)
どこに? って……。
考えれば考える程滑稽だ。早稲田大学の学生食堂内、人目もはばからず、一人、声を出して笑ってしまう。
荘太は先日の響介との電話を思い出していた。久しぶりの彼からの連絡に、やや緊張しながら電話を取った。だが、その第一声は、まるで予想していないものだった。
『彼女ができた』
そして尋ねたのだ。どこに? と。
それはアルバイトの最終日のことだった。大学入学以来続けてきた、キャンパスに程近いスーパーマーケット『トミー』でのアルバイトを、荘太は辞めた。ずっと以前から決めていたことだった。二○一二年の三月、三年生になるその前に辞める。
いよいよ勝負の時が始まるのだ。この一年で漫画家になれるかどうかが決まる。
しかし決断が揺らいだことも何度かあった。それ程に『トミー』は荘太にとって居心地がよかった。
荘太が『トミー』でアルバイトを始めて二ヶ月が経った頃だった。倉庫で空になった段ボール箱を片付けていると、副店長が見知らぬ男性を伴って現れた。けれどその男性は『トミー』のエプロンを身に付けていた。「ここにいたのか」と副店長が正面に立つ。
「今日から働いてもらう西川響介くん」
事態を察して軽く自己紹介をする。「ほら、挨拶して」と副店長が響介を促す。ややあってから、小さな声で「よろしくお願いします」と一言だけ言って頭を下げた。愛想笑いのない、最低限の挨拶。暗い人だな、荘太はそんな印象を持った。
更に二ヶ月後、また新たな新人アルバイトが入ってきた。そのタイミングで、店は新人歓迎会を開いた。店の隣にある居酒屋で、座敷のスペースを貸し切って、それは行われた。
店長の乾杯の音頭の後、今度は副店長が立ち上がり、「それでは」と切り出した。
「改めて、新人三名に自己紹介をしてもらいましょう」
そこで荘太は初めて他人に漫画を描いていることを打ち明けた。ちょうどいい機会だと思った。これで後戻りはできない。周りからすれば、なんの変哲もない自己紹介だっただろう。けれど荘太にとっては決意表明だった。