朝日に落ちる箒星
14.矢部君枝
「駅から結構歩くんだな」
「だから言ったでしょ。駅まででいいよって」
家まで送ると言って聞かなかった塁は、家の前に着くとそんな事を言った。
「母親、二十時ごろにならないと帰って来ないから、あがってって」
ドアのカギを開けて、散らかっているリビングには通さず、そのまま二階の私の部屋に案内した。
「結構綺麗にしてますなぁ」
きょろきょろ辺りを見回している塁の事だから、勝手に色んなところを触るだろうと思い「そこに座って動かないで」とベッドに座らせた。脱いだ上着は私が受け取って、ハンガーに掛けた。
「俺が部屋を荒らすとでも思ってんの?」
「思ってる」
私は自分のコートをクロゼットに仕舞うと、塁の隣に座った。パソコンデスクの椅子に座ろうかとも思ったのだけれど、塁との距離感で適切なのは、こっちだと思った。
「フランスではどう? 毎日どんな感じなの?」
私は壁に凭れかかりながら質問すると、塁もずいっと後ろに下がってきて壁に凭れた。
「片っ端からあっちの画家的な人の所回って、気に入った先生の所に自分の絵を持ってってさ。見てもらって。俺の絵を凄い褒めてくれた先生がいるんだよ」
塁はとても楽しそうにニコニコしながら話をする。さっきまでの鬱々とした気分が吹き飛んでいくようで、爽快だった。
「その褒めてくれた絵っていうのがさ、実は矢部君の、例の肖像画なんだよね」
塁にしては珍しく、少し照れたように下を向いて、耳を赤くしている。
「目が、いいって。言ってくれて。それからその先生の所に毎日通ってるんだ」
話を終えると、私の方をぱっと振り向き、そしてニカっと笑った。つられて私も笑顔になる。元気という名の栄養をくれる、笑顔。
「凄いね。外国で自分がやりたい事をやるなんて、本当に尊敬するよ」
もっともっと、相応しい言葉があるのかも知れないけれど、巧い言葉が見付らなくて、もどかしい。あなたは素晴らしい、あなたに追いつきたい、そう言いたいのに。
塁は大学を辞めて正解だったんだ。童顔の塁が、少し大人びて見えた。いつだったか、こういう顔を見たな、と記憶を辿るが結局分からずじまいだった。
「うまく行けば、その先生と連携して、こっちで仕事を始められるかもしれないんだ。そしたら肖像画、持ってくるから。矢部君にあげる」
私は目の前でぶんぶんと手を振った。
「そんなの、貰えないよ。そんな大事な絵を。コピーでいいよ、コピーで」
そう言うと塁は「コピーかよ」と笑いながらも了承した。
「俺はそんな感じ。それで、矢部君はどうするの、これから」
さっきまでの笑顔が、張り付いたままぺりぺりと音を発しながらヒビが入って剥がれ落ちてくる。どうしたらいいのか分からない。
「自分にもね、責任があるような気がして、腹立たしいのをどこにぶつけたらいいのか分かんないんだ」
自嘲気味な笑みでそう言うと、思いのほか強い調子で塁が声を張り上げた。
「矢部君は何も悪くないだろ。矢部君の過去を知っていながら、ああいう事をしちゃうあいつが悪いんだ」
そうかな、ぽつりと言うと、彼の温かい手が、頭の上にポンと乗せられた。そこからまた、元気になるエキスを注入されている様で、こそばゆかった。
「俺も智樹の事好きだからさ、やっぱり智樹が矢部君以外の女とヤったってのは許せないんだよね。俺の大好きな矢部君を傷つけたことも許せないしね」
恥ずかしい素振りを微塵も見せずそんな事を言うので、逆に言われたこちらが顔を真っ赤にする羽目になった。塁のこういう正直なところが好きなんだよな、と口には出さないけれど、どんどん塁に対する気持ちが湧いてくる。
急に肩を抱かれ、塁の腕と私の肩がぶつかった。「いて」と言うと「ごめん」と返ってくる。
「本当は俺がこうやって矢部君を守ってあげられればいいんだけどな。無責任に置いて行っちゃってごめんな」
この人は何を言っているんだろうかと首をかしげてしまった。塁は何も悪い事をしていない。謝る必要はない。こうして突然でも元気な姿を見せてくれるだけで、こんなにも元気を貰っているのだから。
私は身体を翻して塁に抱き付いた。
「お、かなり調教されてんな」
ふざけた調子でそんな事を言うので、私は塁の耳元でクスっと笑ってしまった。そのまま抱き付いていた。暫く、部屋の中に沈黙が流れた。
「やっぱり、塁の事、好きだな、私」
不思議だ。身体がくっついていると、言いたい事がすらすらと口を突いて出てくる。
「智樹の事も好きだけど、塁の事も好き。何にも変わらなかったよ、四か月」
うん、と優しい頷きが耳に心地よい。
「フランスにいても、いい女いないんだよなー。だから毎日のように矢部君と智樹の事を思い出しては俺は泣いてたんだよ。キモいでしょ?」
ハハッと笑って「キモい」と返した。
「矢部君さ、前から言おうと思ってたんだけど、いい匂いがするよね」
私はバッと身体を離し「何、何の匂い?!」と慌てたのだけれど、すぐに塁の手が背中に周り、抱きしめられる。私は勢い余って壁にゴンと額をぶつけてしまった。眼鏡がずれる。
「多分、シャンプーの匂い。まだ変わってないや。良かった」
たった四ヶ月しか離れていなかったのに、随分長い間会っていなかったような気分なのが不思議だった。それだけ会いたかったんだろうと思う。でもそれは、塁も同じで、塁も智樹に会いたかっただろうと思う。それが、再会してすぐにこんな面倒な問題に首を突っ込ませてしまって、また申し訳ない気持ちになってしまった。
「会ってすぐ、泣き顔でごめんね」
「会えたからいいんだよ、そんなんは」
また、頭を撫でられる。童顔の塁に頭を撫でられるのは凄くおかしな気分で、それでも手の温かさのせいか、妙に心地よくて、身を委ねてしまう。
「ねぇ、智樹とは大人のキスをしたんでしょ」
いきなりそんな話に飛んで行った事に驚き「何でそんな話?」と抱きしめられたままで身構えた。
「俺としたら、智樹は怒るかなぁ」
何も言えなくて黙ってしまった。正直な所、怒るかどうか分からないから。いや、きっと怒らないだろうと思う。だって、私達は奇妙な三角関係で結ばれてしまっているから。それを智樹も分かっているから。それでも、怒らないだろうとは言えなくて「さぁ」と曖昧な返答しか出来なかった。
「じゃあ大丈夫だな」
無理矢理自分に言い聞かせるような口ぶりだった。彼は私の顎を優しく支えて口づけをし、そのまま長くて深くキスをした。智樹のように慣れてはいない、不器用さを感じるキスで、心のどこかで安堵する自分がいた。唇を離すと、塁は出し抜けに俯いたまま言った。
「言っとくけど、智樹は違うだろうけど、俺はファーストキスなんだからな。ちゃんと覚えとくからな」
そう言った塁は、今度はあからさまに顔全体を赤くしていた。
塁とのキスと、智樹と星野さんのセックスは全然等価じゃないけれど、塁とキスをした事で、智樹に後ろめたい気持ちが生まれたのは事実で、智樹にこの事を話せば私は少しスッキリするかもしれない、そんな風に思えて、塁に「ありがと」と言った。彼は首を傾げていた。