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習作01

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変化と言うのは唐突に訪れる。
揚羽蝶の羽撃きが核戦争の引き金になるかも知れない。
突如発生した台風のお陰で儲けを得る人が居るかもしれない。
人生万事塞翁が馬、何がどう干渉するのか解ったものでは無い。

この男にも、突如そんな転機が訪れたのだ。

彼は呆然と目の前の光景を眺めていた。
その視線の先には彼の腕が続いている。

彼の育ちの良さを伺わせる艷やかな白い肌。
箸よりも重いものを持ったことが無いかのような細い二の腕。
肉付きの悪さから骨が浮き出た肘周り。
そこから続く筈だった腕は灰色の壁に包まれている。
彼の身に何が起こったのか。話は数分前に遡る。

――――――――――――――――

目の前のラップトップPCに一通り文章を打ち込み切った私は、一息入れようと席を立った。
机には冷め切ったマグ、長年愛用しているラップトップPCが乗っている。
横の棚には研究に用いた論文を纏めたファイル、本がどっかりと場所を占め、冷たく私を見下ろしている。
…この活字達も私と同じような経緯を辿って生まれたのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。

目の前が荒波に乗る船のように揺らぐ。
酒を飲んだ覚えは無いが、睡眠不足は酩酊と似た効果をもたらすらしい。
そんな無用な雑学を引っ張りだしながら、私の頭が今の自分に必要な物を分析し始める。

懐からライターを取り出し胸ポケットを弄るが、昨日紙巻煙草を吸いきったことを思い出し落胆する。
先日奮発して取り寄せた葉巻は自宅にある。そもそもあれは余り持ち歩くものでは無い。
此処に持ち込んだ珈琲の粉は先程の一杯で丁度切らした。
インスタントを買いに行こうか、と考えたがこんな状態で二輪のエンジンを走らせるのは危険極まりない。
結局常設の自動販売機に世話になることにした。
缶珈琲のわざとらしい甘さは好みでは無いが、贅沢が言える立場では無い。

おぼつかない足取りで出口の方へとゆっくりと歩みを進める。
こんなことなら栄養ドリンクの1つでも買っておくべきだったと内心舌打ちを重ねる。
これで一段落付いたのだ、今日はゆっくりと布団で寝るとしよう…と自分を慰めながら歩みを重ねる。
真っ直ぐ歩くことすらままならない自分の体に不満が募る。
ぐらり、と視界がまた大きく揺れる。どうやら体勢を崩したらしい。
この勢いで目の前の壁に衝突した場合、私の体が受ける力は…受ける傷は…
冷静に分析を始める頭を尻目に、反射的に腕を前へと突き出した。
こればかりは肉体の自衛本能だ。
避けようが無いとは言え、後々突き指などの傷の処置の手間を考えると溜息が出る。
と、考えたところで違和感に気付く。

目の前の壁まで目測でおおよそ30cmと無い。私の腕は目の前に突き出されている。
私の腕は30cmなんて短い長さでは無い。短めに見積もっても70cmはあるだろう。
更に奇妙なことに、何も触っている感覚が無い。私の指は空を切っているであろう。
そもそも振り返って考えてみると前のめりの体勢で静止していること自体が何かおかしい。
ふと視線を前に向けてみる。私の腕があった筈の場所に一面の灰色。
解りやすく言うと、私の腕の肘から先が綺麗に壁に埋まっている。

私は夢を見ているのか?空いている腕で頬を抓る。古典的だが最も明確な手法だ。
頬肉はしっかりと痛覚を返した。どうやら夢を見ている訳ではないらしい。
もう一度冷静に壁の方を見やる。相変わらず同じ光景が映る。現実は非情だ。
ゆっくりと腕を引いてみる。動かない。幸か不幸か痛みは無い。
少し強めに引いてみる。接合部分から痛みが走る。無理はしない方が良いだろうと判断を下した。

何故この様なことが起こっているのか。非常に興味深い現象だが、当事者たる私はそれどころでは無い。
このままではカフェインもニコチンも摂取できない由々しき事態だ。
恐らくこのまま無理に引き抜こうとすればタダでは済まない。却下。
壁を壊してみるか?私はしがない非力な一般市民だ。ほうれん草を食べても馬鹿力は出せない。
では周囲に状況を打破できる物があるか、と言うと私が身に着けているのは此処の鍵と携帯ぐらいだ。
机まで手を伸ばしてみるが、腕一本では到底届く距離では無い。
そもそも壁を破壊できるような武装が一般的な部屋にある訳がない。この案も現実的では無い。

外部に救助を求めるか?今は午前の3時を回ったところだ。
そもそも事実をありのままに語ったとして誰が信じるのか。友人の助力は得られそうもない。
結局公的機関に頼るのが最善だろう、と言うのが私の頭が出した結論だった。
こういう場合は救急なのか?それとも警察なのか?そんな考えを振り払いながら、110にコールする。

そこから先の出来事は正直覚えていない。あまりにも現実離れしていた。
駆けつけた救急隊員の唖然とした表情は鮮やかに覚えている。
私は腕の周囲を円形に綺麗に切り取り、緊急病院へ搬送された。
精密検査の結果、私の腕は壁のそれと完全に融合してしまい、
切り離すことが非常に困難であることが判明した。

「ある男の腕が突然壁に埋まった」と言う事実は暫くお茶の間を沸かすのに十分だったらしい。
病院としては最善の対策をしてくれたとは思うが、やはり無理だ。
何処からか情報を仕入れてきた新聞やドキュメンタリーが取材に訪れる様になり始める。
僅かな情報から私の入院先を割り出し、実際に此処を訪れる人が来る様になった。
私の研究分野では無いので詳しくは無いが、
私に起こったこの現象を巡ってとある分野では議論が加速していったらしい。
私のところを訪れる学者も居た程だ。

ある時、その分野の研究者の中に「彼を貴重なサンプルとして保存すべきだ」と主張する人間が現れた。
曰く、私の身に起きた現象を解明すれば、人類の発展に大きく貢献する、と言うのだ。
その発言もメディアに取り上げられた。世論は、研究者の味方についた。
彼の弁術は傍から見ても素晴らしく、きっとその場に居た人は魅了されたのだろう。
当初はメディアも批判的な立場だったが、時を経るに連れて段々と肯定的な立場になっていった。
私も自分の身に起きたことでなければ首を縦に振っていたかも知れない。

当然、私は逃げた。実験サンプルにされるなどたまったものでは無い。
腕に付いたコンクリート塊は手枷のように重い。そのような状況で到底長く逃げられるはずも無かった。
今、私は独房の中でこの文章を書いている。彼等からすると私はモルモットの一匹でしか無いらしい。
これからのことを考えると、先は昏いがなるようにしかならないのだろう。
あの時壁の方に転けたりしなければ、と何度も恨んだ。しかし今更どうしようもない。

この文章を残そうと思ったのはほんの気紛れだ。
「私はモルモットではない」と言う、人間としての最後の抵抗なのかもしれない。
この手記が何になるとも思わないが誰かの目に止まり、
"私とが人間だった"ことを覚えてもらえればきっと私がこの文章を書いた意味はあるのだろう。
そろそろ時間のようだ。背後で私を呼ぶ声がする。最早私に呼ばれる名前は無いが。
この文章が、一人でも多くの心ある人間の目に触れることを祈って締め括ることにしよう。

作品名:習作01 作家名:Etheldreda