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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ

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それから、自分がどうやってマンションまで帰り着いたのか。実のところ、紗英子はよく憶えていない。それほど、拓也の母親から受けたとりつく島もない仕打ちに衝撃を受けていたのかもしれない。
 気がつけば、リビングの壁に背を凭せかけ、ぼんやりと暗がりに蹲っていた。
 何時頃に戻ってきて、今がいつなのかも判らない。ふいに頭上が煌々と輝き、眩しい光が紗英子の顔を照らした。
 紗英子は両手で顔を覆い、眩しい光をよけながら立ち上がろうとする。しかし、長い間、同じ姿勢で座り込んでいたため、思わずよろめいてしまった。目眩もわずかにあった。
「大丈夫か?」
 直輝が咄嗟に抱き止めてくれなければ、そのまま転倒していただろう。
「どうしたんだ、灯りもつけずに」
 直輝の眼が気遣わしげに紗英子を見ている。ふいに、紗英子の中を烈しい感情が突き抜けた。
「ねえ、どうして天の神さまは私たちに赤ちゃんを与えてくれなかったのかな」
「お前―、まだ、そのことを考えてたのか?」
 直輝にその時、悪気があったとは思えない。しかし、紗英子はどうしても引っかからずにはいられなかった。
「まだ、ですって? 当たり前でしょ。直輝さんの中ではもうとっくに終わったことなんでしょうけど、私はまだ終わったわけじゃないのよ」
「諦め切れない気持ちは判るが―」
「諦める?」
 その何気ないひと言は紗英子の心を真っすぐに射貫いた。
 諦める―? 私は子どもを持つという夢を諦め切れるの?
 自分に問いかけてみる。他人が聞けば、笑うかもしれない。子宮を失ったのだ。諦めたくなくても、諦めざるを得ないだろう。
 何を今更、愚かなことを考えているのだと。
 いいえ、諦めるものですか! 私はけして諦めたりはしない。赤ちゃん、私の赤ちゃん。どうやったら諦められるというのだろう?
「ねえ、どうやったら、諦められるの?」
 それは直輝にというよりは、自分に向けて発せられた問いであった。
 一瞬、直輝が息を呑んだ。
「おい、紗英子」
 妻の尋常でない様子に気づいたのだろうか、直輝は整った顔を強ばらせたまま、なすすべもなく妻を凝視していた。
 どれくらいの時間が流れたのか。
「紗英子」
 優しく名を呼ばれ、紗英子はゆるゆると顔を上げた。多分、それは時間にしては、たいした長さではなかったはずだ。それでも、紗英子には途方もなく長い沈黙のように思えた。
 あっと思ったときには、直輝に膝裏を掬われて抱き上げられていた。
「お前は昔から、物事をとことん突き詰めて考えてしまう癖がある。そういうのも良いときもあるけど、かえって余計に自分を追い込む羽目になることだってあるんだ。今は何も考えるな」
 直輝は幼い子どもに言い聞かせるように話しかけながら、リビングを出て向かい合わせの寝室のドアを開けた。
 二人用のベッドにそっと降ろされ、紗英子は夫を見上げた。淡いナイトスタンドの明かりだけが照らす寝室は森閑として、まるで深い深い水底(みなそこ)のようだ。夫の表情は薄闇の中では定かではない。
「直輝さん?」
 直輝の心情がよく判らないだけに、紗英子はつい心細い声を出していた。
「久しぶりに、しようか?」
 それは直輝が実に久しぶりに発した誘いの言葉、はっきり言えば、セックスしようという合図だった。
 新婚時代はともかく、不妊治療を始めてからというもの、直輝からあからさまに誘ってきたことはなかった。直輝は基本的に不妊治療を嫌がっていた。医師から排卵日に合わせて指示される夫婦の営みというものを嫌っていたのだ。
―まるで義務のように思えて、重荷としか思えない。
 しょっちゅう零していた。
 しかし、辛いのは紗英子も同じだった。
―疲れたと言ってるだろうが! 幾ら医者に言われたって、こっちとら都合もあるんだぞ。とにかく今夜はその気になれない。
―そんなこと言わないで。
 紗英子は涙ながらに直輝に懇願したものだ。
―今夜に合わせて排卵がうまく起こるように注射して薬まで飲んだのよ? 今夜のチャンスを逃せば、また長い間、次の排卵日まで待たないといけないのに。
 そのときもまた〝仕事で疲れた、その気にならない〟のひと言で片付けられてしまったら、自分はどうすれば良い?
―お前が必死になればなるほど、俺の気持ちは冷えてゆくんだ。こんな気持ちでセックスなんて、できると思うか?
 毎度、同じような繰り返しが続いた。時には
―お前はそんなにまでセックスがしたいのか! この淫乱女め。
 聞くに堪えないような嘲りの言葉を投げつけられたこともある。
 あの時、直輝に突きつけられた科白が今、まざまざと耳奥で甦ってきた。
 直輝が座ると、ベッドがわずかに軋んだ。覆い被さってきた夫を見上げ、紗英子は感情のこもらない声で聞いた。
「どうして?」
「―」
 直輝の眼が訝しげに細められる。
 紗英子はもう一度、はっきりと言った。
「どうして、今なの?」
 あのときは私を色情狂扱いして、夫婦の営みには協力してくれなかったのに。私はあの夜だけに向けてひたすら努力して体調を整えてきたのに、あなたは無情にも背を向けた。それでも、私はあなたに何度もお願いと言って懇願した。
 その翌朝まで、紗英子は泣き通しだった。生理が終わってから排卵日を迎えるまでの夜、自分がしてきた努力は一体何のためだったのかと問いかけながら―。
 そんなことが何度、繰り返されてきたことか。その挙げ句、紗英子は子宮を失い、二度と子どもを生めない身体になった。
 なのに、何で、今になって夫婦の営みをしようというのだろう? もう、紗英子には何の意味も持たない空しい行為にしかすぎないというのに。
「不妊治療をしていた頃、私が幾ら頼んでも、あなたは協力しようとはしてくれなかった」
 もちろん、毎回拒まれたわけではない。嫌々な態度は見え見えではあったけれど、少なくとも〝義務〟は果てしてくれた。でも、それと同じ数くらい、拒まれたことも事実なのだ。その度に、紗英子の自尊心はどれだけ打ち砕かれ、多くの涙を流したことだろう。
「俺は、堪らなかったんだ」
 漸く紗英子の意図を理解したのだろう。直輝が首を振りながら言った。
「何が?」
 紗英子が問いかけると、直輝は小さな息を吐き彼女から離れた。ベッドの縁に浅く腰かけると長い脚を組む。
「お前は狂っている―、いや、別に本当に狂っていると思ってたわけじゃない。言い方が思いつかなくて、こんな風になっただけだから、許してくれ。だが、とにかく、俺から見たら、どうかしちまったんじゃないかと思うくらいに―何かに取り憑かれたように夢中になっていた。確かに子どもは夫婦にとっては重要なものだ。だけど、何もそこまで髪振り乱して取り組むほどのことでもないんじゃないかって、いつも疑問が俺の中にあったんだ」
 直輝はそこで今度は大息をついた。
「だから、お前が夢中になって必死になればなるほど、俺の心は醒めたし、心の中の疑問も大きくなった。医者に指示された夜だけ、ただ義務のようにセックスするなんて、それじゃ、動物園の飼育動物か繁殖用の馬と同じだ。俺は何も種馬になりたくて、お前と結婚したわけじゃないって大声で叫びたかった」