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世界から四角く切り取られた破線

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「こう君、足、どうしたの?」
 春樹の席がある教室の後方ドアから、浩輔が登校してくるのを見ていた郁美は驚いて声をあげた。やり忘れた宿題をやっつけていた泉は、声の方向に目をやる。
 昨日のスタメン発表で浩輔がメンバー入りした事は女子バレー部にも広まっていて、勿論大輔がメンバー落ちした事も泉は知っていた。遅刻常習者の大輔はまだ登校していないが、さぞかし落ち込んでいるのであろう。何と言って声を掛けようかと悩んでいた。
 ドアから見えた浩輔は、見た目こそ普段と何も変わらなかったが、足元を見ると、引きずっていた。
「昨日、家の階段で足を挫いちゃって」
 いつものように、困ったような顔で頭を掻いている。
「え、じゃぁインハイ予選は?」
「ちょっと無理だね。残念だけど。あ、でも大輔が活躍できるから、楽しみだね」
 インターハイ予選に出られるのは三回しかない。そのうちの一回を逃したのに、浩輔があまり悔しがっているように見えない事が泉は気になった。が、ずっとスタメンを狙っていた大輔がメンバー入りできるのなら、大輔が喜ぶだろうと、彼の登校を待っていた。

「嬉しかねぇよ、そんなん」
 大輔は口を尖らせる。泉がいの一番に報告をしに行ったら、この一言だった。大げさな音を立てながら、机の中にある教科書を机の上に出している。
「だって怪我だろ、治ったらどうせ俺は七番目なんだよ」
 少しいじけた子供の様に口を尖らせ泉から目を逸らせた大輔だったが、泉にはそれが照れ隠しである事が透けて見るように分かった。何しろ口角が、ひくひくと痙攣している。五年も一緒にいると、色々な事が分かるようになってくる。
「少なくとも予選一発目は試合に出られるんだから、良かったじゃん。あんたも転ばないようにね」
 大輔の頭をポンと軽くたたいて席を離れようとすると、向こう側から浩輔が足を引きずりながら歩いてきた。「だいちゃん、今日の日直、俺が代わりにやっておくから、だいちゃんは早く部活行きなよ」
 大輔は斜め後ろに立つ浩輔の顔を、首を反らして見ると、手を伸ばして浩輔の手を握った。「まじでありがと。まじでありがと」
 浩輔は何か大事なものでも手に入れたように、頬を上げて両手をゆっくりと学ランのポケットに突っ込んだ。
 日直の仕事は、日誌記入と黒板消し、それに机の整頓だ。
「その足で、大丈夫なの?」
 泉は心配そうに眉根を寄せて浩輔の顔と足に視線を上下させると、浩輔は手を突っ込んだポケットごと手を左右に振り「大丈夫大丈夫」と言って自席に戻って行った。
「だ、そうだ。大ちゃん、今度何かおごれ」
「何でお前が言うんだよ」
 今度は泉が大輔に一発叩かれた。

「あ!」
 大仰な声に郁美が険しい顔で「何?」と泉を見遣る。更衣室にいた他の部員達も同じだった。
「練習着、ロッカーに置いて来ちゃった。取ってくる」
 背中の方で「貸そうか?」と郁美が言ったが、右手を振って断った。サイズが違うのだ。郁美はセッターで身長が小さい。泉とは20センチは差がある。
 軽快な調子で二階まで階段を上ると、少し離れたとところに見える2−Gのドアは開いている。泉は息を整えるためにドアまで歩くと、そこでぱたりと足を止めた。目の前に映る光景に、首を傾げた。
 大輔の代わりに日直の仕事をしている浩輔の後姿が、正常なのだ。教室の後方の黒板を左右に動きながら綺麗に消す彼の足は、引きずる事無く正常に動いている。
 泉は一歩、教室に踏み入れた。「こう君」
 浩輔は驚いた顔で目を見開き、だけど一瞬で肩を落とした。
「見られちゃった」
 短く切りそろえられた髪をくしゃっと一度触った。泉の口からは、両手一杯のブロックのひとつがころりと転がり落ちるように「なんで」の一言が零れ落ちた。
「柳沼さんこそ、どうしたの」
 足の事を全く気に留めていない様子の浩輔の語り口調に、少し苛立った。
「練習着忘れたから取りに来たの。で、何で普通に歩いてんの」
 何が可笑しいのか、クスっと笑い、近くにあった椅子に、前後逆に腰掛けた。
 少し沈黙が流れ、廊下を女子生徒が数人、声をあげながら通って行った。
「俺がスタメンになる事で、嫌な気分になる人が沢山いるんだ」
 椅子の背もたれからまっすぐに下した腕からスラリと伸びる白い指を、からめたりぬいたりしている。
「俺はまだ入部したばっかりでしょ、他は一年や二年間、ここで努力してきた人。俺はまだこれから試合ができるけど、そうじゃない人もいるからね」
 浩輔は自分の指から視線を移さずそう言い、首の後ろを掻いた。泉には理解できなかった。あんなに部員数の多い部活で、レギュラーメンバーに抜擢された事に、なぜこだわりを見せないのか。
「何でそこまでしてさぁ、優しく出来るの。自分を犠牲にしてまで」
 逆に泉は彼の事をずっと見ていた。するとフっと自嘲気味に笑う声が、彼の身体を揺らした。
「こういうのって優しいって言うのかなぁ。分かんないけど。俺は、罪滅ぼしでやってるの。俺が犠牲になって誰かが幸せになるなら、それでいい」
 すっと顔を上げ、泉を見たその顔は、やはりどこか遠い次元で笑っているような顔をしていて、彼女は魔法でもかけられたみたいに暫く動けなかった。
「言わないでね、誰にも。一週間は部活に出ないから」
 彼は立ち上がって椅子を元に戻し、机の整頓を始めた。がたがたと騒々しい音が教室に響く。
「あのさ」
 泉は少し大きな声で浩輔の後姿に話しかけた。浩輔は返事をせず、整頓を続けるので、また大きな声を張り上げた。
「同情でスタメン譲ってもらったって嬉しくないと思うよ、大輔」
 その後ろ姿は一瞬固まり「同情?」と言って首を傾げた。
「俺は同情なんてしてない。大輔の事をかわいそうだなんて思ってない。ただ、俺が納得いかなかった。それだけだから」
 一度も泉を振り返らず、再び机の整頓を始めた彼の線の細い後姿から、しばらく視線を外せなかった。結局彼はそれ以上語らず、大輔の座席で、机から取り出した日誌を記入し始めた。泉はロッカーから練習着を掴んで「お疲れ」と一言告げて教室を出た。