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桜、希望

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あの桜の木を、私は愛し、憎んでいたのだ。
 そのことに気がついたのは、私がようやく母の呪縛から解き放たれ、施設を出ることになったときのことだ。
 両親がいない子供を預ける『天使の館』。入口にはいつも聖母マリアがそびえ立っており、私はその像を見る度に吐き気がした。世話係だった先生たちはキリストの母がいつも傍にいることを私たちに説き伏せ、お祈りをするよう強制した。そうすることで、私たちに両親から捨てられたという事実を忘れさせ、母という存在を憎むことを防ごうとしたのだろう。
 だけどそれは母ではない、と私はずっと知っていた。母はいつか迎えにきてくれるのだ。桜が咲く頃に、必ず。私は口では祈りを唱えながらも、心の中ではそう強く繰り返した。そうでなければやっていられなかった。きっとこの施設にいた子供はほとんどそうだっただろう。

 ――あの桜の木が咲く頃に、必ず迎えにくるわ
 母は私の頭をなでて言いながら、『天使の館』の入口に植えられていた桜の木を指差した。母との別れを何となく理解していた私が、しがみついて離れなかったために、母は私を納得させようと適当なことを言ったのに違いなかった。
 そのときは秋で桜の木の葉はほとんど落ち切っていた。その寂れた一本の木に、母はほんの一抹だけあった私の希望を、そこに与えた。その残酷さを母が理解していたのか、もう私の知るところではない。
 母のその最後の言葉が呪いとなるのにそれほど時間はかからなかった。
 その言葉を私に発したときの母の顔がよく頭に浮かんだ。母は美しく、長い髪が丁寧に手入れされており、小奇麗な格好をしていた。恐らく貧困に苦しんでいたということもなかったはずだ。未だにどうして自分が捨てられたのか、理由は分からない。そんなことを考えることさえ、もうすでに億劫だった。
 私はただ桜が満開になり、母が来てくれるこに待ち焦がれていた。何かに縋りつかなくてはやっていられなかった。この『天使の館』と呼ばれる、捨てられたものが集まる、独特の空間の中では。
 私は桜が咲くのを待ち続けた。そこには希望があった。桜の花びら一つ一つが私の希望だった。母に対する愛ではない、自分に対する憐れみの気持ちでもない、家族を得たいという欲でもない、そこにはただ、希望があった。
 だが何度桜が咲く季節になっても、母は私を迎えには来なかった。
 そしていつしか私は、花びら一つ一つが落ちていくたびに恐怖を覚えるようになった。春が来る度に桜を見ないように部屋に引き籠るようになった。桜が散っていくたび、私の希望が無くなっていることを自覚することが怖くて、ただ私は目を瞑った。  

 それから数年後、私は見知らぬ新しい両親とともにこの施設を出ることになった。
 皮肉にもそれは春、桜が満開になる日だった。何年かぶりに見た桜は恐ろしく美しかった。その映像を瞳に焼き付けた瞬間、何故だか私の目から熱い涙がこぼれ落ちた。
 その美しさは、あまりにも憎しみとはほど遠く、いつも変わらずここにあった。そして私は気付いてしまった。
 私は桜に希望を与えたのではない、過去に希望を与えたのだ。だから時が進むことが怖かった。桜が咲く度に、私は進みゆく時間に恐怖した。母の言葉、母を愛していたという記憶、母と過ごした過去など、それら不毛なものに希望を与え、そこから目を逸らそうとはしなかった。
 恐怖を乗り越えて少し視線を動かせば、こんなにも近くでこれほど美しいものが存在していたというのに、私は見ようともしてなかったのだ。
「どうしたの? やっぱり、この施設を離れるのは寂しいの?」
 新しい母が泣いている私に、戸惑ったように言葉を掛けてくる。美しかった母とは対照的に、とても素朴な瞳をしている新しい母。
 桜が綺麗だから、と呟いた私に、彼女もつられるように桜を見上げた。それから微笑みをその顔に湛え、当然のように言った。 「この桜も、貴方の門出を祝福してくれているのよ」
 私は落ちていく涙を拭い、顔を上げた。その言葉は呪いではないが、いつまでも私の胸に残る。桜が咲くたびに、この言葉を、この桜の美しさを思い出すだろう。その未来が私にはある。
 何にも縋りつかず、喜びや哀しみを自ら決めることの出来る人生が、この希望の先にはあるのだ。
作品名:桜、希望 作家名:椿すみれ