歌う機械人形
眼鏡をかけた、見た目に似つかわしくないやけに馴れ馴れしい青年は私に問う。私は、彼に構わずアリアを歌う。返事を待っていた彼は一瞬変な顔をしたが、すぐに私の歌声に耳を傾ける。そう、そうなのよ。あなた達の純粋に歌に耳を傾けてくれる姿が私は一等好き。だから私は名も亡き即興のアリアを歌い続ける。
「聞いたことない曲だなぁ。君は教えてくれる風でもないし、困ったな」
誰に話す訳でもなく、彼は独り言を呟きながら鞄を漁り、手のひらほどの機械を取り出す。私の大嫌いな文明の道具。高いコンピューター音が一瞬私のアリアを邪魔したかと思うと、またすぐにステージは私の独断場となった。彼はにっこりと笑ったまま、忌まわしい機械だけをしっかりと握りしめている。
「やっぱり君はとても綺麗な声をしているね。考えたんだけど、もしかしてその曲は君が作ったのかい?」
歌い終わり、夜の公園のベンチに座り込んだ私に彼はまたもしつこく話しかけてくる。さっき、あの機械で私の歌を録音したのでしょう? だったら私になんか聞く必要ないのに。最も、この世に存在なんてしない曲だから調べても無駄だけど。
「君は歌ってるときはあんなに華やかで伸びやかなのに、どうして今はそう無口なんだい。返事をするとか、何か一言くらい話してくれたっていいだろうに。そんなに僕が嫌いなのかい」
不満げに眼鏡の青年は私の瞳を覗き込む。違う、話さないのではない。話せないのだ。私は人に対して歌うことでしか自分を表現できない、伝えられない。おはようもおやすみも、イエスもノーもすべて。私の唇から発せられるのは歌のみ。ジェスチャーさえ出来ない。笑うことさえ出来ない。そんな風に私は生まれてしまったから。歌だけが私の唯一あなたたちと取れるコミュニケーション手段なの。
私は立ち上がり、アリアを歌う。即興の、この瞬間世界で今しか歌えないこの曲を。
「ああ、ああ。やっぱり素敵だ。なんて君は美しくて綺麗な声で歌うんだろう! 」
彼の言葉は十分私を満足させた。そう、私はこの瞬間が一等好き。だって、この瞬間だけが皆、私のことだけを見てくれる。歌しか歌えない、こんな私を。
「そうか、わかったぞ。君は歌ですべてを伝えるんだね。だから話さないし、にこりともしない。ねえ、また明日の夜もこの公園で歌うのかい? また、明日もくるよ。僕にはまだ、君の歌が何を伝えたいのかわからない。でもわかりたいんだ」
歌が詰まりそうになった。こんなことを言われたのは初めてだった。大抵は私をストリートミュージシャンの類いと勘違いして小銭をおいて去っていくか、私に話しかけても無駄だとわかるとすぐに離れていく人間ばかりだったのに。
「あれ、今、少し歌声が震えた? これはイエス、それともノー?」
イエス! イエスよ! こんなに人間と話せたらと思ったのは生まれて初めてだった。歌で気持ちさえ伝わればいいと思っていたのに。ああ、私の歌は彼にどんな風に伝わるのだろう。ねえ、明日も来て。明後日も、その先もずっと。私の歌を聞いてほしいの。
「名前、わからないからアリアって呼んでもいいかな。君はアリアしか歌わないし、名前がわからないから」
「ねえアリア、君の歌がなんて言っているのかわからないけれど、明日もくるよ。その先も。君のことがもっと知りたい。君の歌を全て聴きたい」
アリア、また明日来るからね。そう言って青年が去っていく後ろ姿がなぜか水の中にいるように霞んで見えた。
−fin−