廻る夏と彼女と浴室
(廻る夏と彼女と浴室)
勢いを増す雨の中、僕は息を荒げながら自転車を漕いでいた。目を開けることも困難なほどの風雨は容赦なく僕の体を濡らし、体温を奪っていく。挙句の果てに、彼女の家までは坂道の繰り返しだ。彼女の家に着くころには僕は全身パンツまでびしょ濡れで、荒い息は収まることを知らなかった。軒先に自転車を止め、防水加工のおかげで辛うじて無事だったバッグからタオルを取り出し濡れた髪を乱暴に拭く。次いで着ていた開襟シャツを脱いで固く絞ろうとしたその時、ペタペタと裸足で廊下を歩いてくる音がして、ガラリ、玄関の引き戸が開いた。
「いらっしゃーい」
ポタポタと髪から雫を垂らし、彼女が現れる。雫は下に落ちて、コンクリートに幾つか染みを作った。
「お邪魔します。…風呂、入ってたの」
「そ。嫌んなっちゃうよね、雨。しかもこんな豪雨でさ」
おおげさに顔を顰めて、彼女は外に目をやった。庭に出ている彼女お気に入りの猫足バスタブは、今日は雨に打たれて使えない。彼女の首が動いた拍子に、ふわりとシャンプーの匂いが僕の鼻孔をかすめ何とも言えない気分になる。
「おやまあ、ずいぶん濡れちゃって。ボイラー付けっぱなしだから、お風呂入ってきなよ」
「…え」
半ばイケナイ妄想に突入していた僕は、彼女の言葉にドキリとする。風呂に入れと、彼女はそう言ったか。
「でも、あの、着替えとかないし」
「君が入ってる間にドライヤーで乾かしたげるからダイジョーブ」
「いや、そんな短時間じゃ乾かせないと…」
「最悪パンツだけでも大丈夫でしょ、夏だし、男の子だし」
「パンッ…!?」
こともなげに彼女は言う。そして僕を家の中に引っ張り込み、徐に学校指定の開襟シャツに手をかける。
「わ、ちょっ!」
「何照れてんの、オンナノコの裸は見れるのに自分のを見せるのは嫌?」
「そういう訳じゃないけど…っていうか、裸なんか見てないよ!庭に居る時は水着来てるだろ」
「うーん、まあ細かいことは気にしない。良いから脱いで風呂場行った!」
パシンと僕の背を彼女が叩くから、僕は軽く制服の裾を絞って玄関を上がる。彼女について廊下を歩くが、揺れる髪から漂うシャンプーの香りにギクシャクと僕の動きはおぼつかない。やがて風呂場に近づくにつれ、空間そのものがシャンプーの香りになっていよいよ僕は落ち着きがなくなった。
「あ、のさ。やっぱり良いよ、タオルだけ貸してもらえれば」
「駄目だよ、そのままだと多分臭くなるし。うち来て風邪ひかれても困るし」
そう言われては逆らうことなどできるはずもなく。結局僕は脱衣所に押し込まれて、言われるままに浴室に入った。カタンと脱衣所の引き戸が開く音がして、彼女が僕の濡れた服を回収していった気配がした。浴室にはまだ湯気の温もりが残っていて、むせ返るほどに彼女の香りがした。思わず深呼吸した僕は変態ではない、と思いたい。浴槽に目をやると、湯は捨てられていなかった。ゴクリ、生唾を飲む。入ってもいいのだろうか。シャワーを浴びて体を洗いつつしばらく逡巡して、恐る恐るつま先を湯につける。まだ温かい。そこからはもう誘惑に勝てなかった。別に邪な意味ではなく、純粋に温まりたいという誘惑だった。湯からほのかに香るバスオイルに彼女の存在を感じて内心ビクビクしていたのは事実だけれど。それでも体の方は温かい湯に浸かったことで落ち着いたのか、ザアザアと降り続ける雨音をBGMにウトウトと微睡み始めていた。その時だ。
「ねー、ジャージでよかったら着替え見っけたんだけど」
ガラリ。浴室のアコーディオン形式の扉が開いて、僕は飛び上がった。
「な、な…」
「…あれ、ずいぶんリラックスしておられたようで」
動揺してバチャバチャと水面を叩く僕に、顔をのぞかせた彼女はにんまりと笑った。
「ごゆっくり」
「え、あ」
僕の口からちゃんとした言葉は出なかった。彼女が去ったと同時に力が抜けて、ずるずると浴槽に沈む。口まで湯に浸かってブクブクと泡を作りながら、僕は再び目を閉じた。自然、耳が研ぎ澄まされれば、雨音に混じって蛙が何匹か鳴いていた。小さく開いた窓からは、空が見えた。どんよりした灰色の雲はいまだ低く、夏はまだ、終わらない。