深海の熱帯魚
36 久野智樹
「どの飛行機かなぁ?」
拓美ちゃんが至に訊くと、至は目を細めて遠くを見遣り「あの飛行機じゃないか?エアフランス」と機体を指差した。
俺の隣にいる君枝ちゃんは、塁を見送った後からずっと黙り込んだままで、今は窓の桟に身体を預け、塁が乗ると思われる飛行機の機体をずっと見ている。
「大丈夫?」
俺は顔を覗き込むようにして話し掛けると「うん」とだけ返事が戻ってきた。
そのうち、塁が乗っていると思われる飛行機が動き出した。
至と拓美ちゃんは、空港に飛行機見学に来た子供みたいにはしゃいでいて、塁との別れなんて忘れてしまったのではないかという程にはしゃいで、機体に手を振っている。
隣に立つ君枝ちゃんの顔を見る。また涙が溜まってきた。さっきから何度も小さなタオルで押さえている。飛行機が動き出した今、更に涙が出てくるんだろう。
エアフランスの飛行機が目の前を通過する寸前、君枝ちゃんの左手が、俺の右手をぎゅっと握った。
「大丈夫?」
飛び出し、傾斜をつけた機体を見ないように俯いて、でも声だけは気丈に「大丈夫だよ」と言って歩き出した。
俺はその手を離さない様に、しっかりと握った。
「塁と、何の話してたの?」
涙が引いて、普通に話せるようになった君枝ちゃんが俺に訊ねる。
「君枝ちゃんの事を頼む、ってさ。悪い虫がつかないように見張っとけって。別れの時ですら、俺の事じゃなくて、君枝ちゃんの事だよ。参るよ」
電話しろとか、そういうやりとりもあったが、塁はそんな事を伝えたかったんじゃない。君枝ちゃんの事を気にかけていたんだ。
「で、智樹君は何て答えたの?」
ちょっと楽しそうな笑顔で俺の顔を覗き込むのを見て、こんなを話するんじゃなかったと後悔の念に駆られる。
「俺の、彼女に、なってもらうから大丈夫だって......言っちゃった」
俺は恥ずかしくて恥ずかしくて、でも言っておかないとだめだと思って真っ赤になりながら言ったが、語尾が可愛らしくなってしまった。言っちゃった、って何だ。
んははっと君枝ちゃんは横で、あっけらかんと笑っている。相変わらず手は繋いだままだ。
「じゃぁ、塁が帰ってきたら取り合いしてね。それまでは、智樹君の彼女でいるから」
自分の顔が爆発するんじゃないかと思った。真っ赤を通り越して茶色く変色でもしてそうだ。顔が心臓になったみたいだ。
「で、でもあれだ、塁はフランス人の彼女を連れて帰るかも知れないよ?」
そうだねぇ、と君枝ちゃんは踏み出す自分のつま先に目をやり、真面目に考えている。首を捻っている。
「そしたら、そのまま智樹君の彼女でいさせてもらうから、いいよ」
首に心臓を乗せて歩いているようだった。彼女は俺の顔を覗き込んでケタケタ笑っていた。
俺達は、足掻いて足掻いて、おかしなトライアングルから抜け出そうと、これからも足掻くのかも知れない。
塁が帰国してもなお一層、足掻くのだろう。
俺はこれから、君枝ちゃんの彼氏として彼女を守っていく事になるだろう。塁が帰国するいつかまで。その「いつか」が来たら、その時には俺を選んでもらえるように、俺は努力しなければならない。今のままじゃ、塁に勝てる気がしないから。
足掻き続けたらいい。足掻いているうちに、きっと心地よい場所が、そのうち見つかるから。