深海の熱帯魚
31 久野智樹
「日ごろの行いが悪い奴、手を挙げろ」
いつか聞いたよな、至のこの言葉。
昨日はいい天気だったのに、今日は花散らしの雨、しかも風も強いとあっては、明日に延期しても桜が散ってしまうだろう。
結局また、学校から近い俺の家が飲み会の会場になってしまうという悪夢。
「生まれて初めて夜桜見物が出来ると思ったのになー」
拓美ちゃんはそう言うが、夜桜を見たって昼間見たって、結局は木の下で酒を呑んで騒ぐだけなのだ。特に、至と拓美ちゃんは、そうなる傾向にある。
今日も二人はタッグを組んで飲むのだろう。至は隙あらば拓美ちゃんの隣を狙っているのだから。
塁は両手に荷物を持つ代わりに、君枝ちゃんがさす傘の下に入っている。結局あいつはいつも、君枝ちゃんと相合傘をしている気がする。それに、最近やたらと君枝ちゃんと一緒にいたがる傾向にある。
俺は一番最後尾を独りでとぼとぼ歩いた。君枝ちゃんの事が好きなのだが、結局何も進展しないまま時が過ぎていく。もどかしい。
家に着くなり自宅のようにくつろいでいきなり乾杯を始めたのは例の二人で、さすがに「乾杯はみんなでしなさい」と塁が至にげんこつを落とした。
君枝ちゃんが俺の顔を見て苦笑するので、おれも微妙な顔をしながら笑った。
二人は完全に二人の世界で、とっととくっついてしまえと思うのだが、拓美ちゃんにはその気がないらしい。至は蛇の生殺し状態だ。
俺たち三人はテーブルについて静かに酒を啜った。ぽつりぽつりと出てくる会話も、何だか盛り上がりに欠けるなぁと思いつつ、から揚げを口に放り込む。冷めたから揚げ程不味い物はないと俺は思う。嫌な油が口に広がるので、急いで発泡酒で洗浄する。
「あのさぁ、この前矢部君が言ってたんだけど」
塁がそれまでのだらだらしたテンションから一転、正座をして缶チューハイを両手で握っている。
「何、何?」と君枝ちゃんは焦っている。
「矢部君は、俺と智樹の事が好きらしい」
君枝ちゃんの顔から血の気が引いているのが分かる。代わりに俺の頬に赤みが差してくるのも分かる。なんたる血液交換。
「何でこんな時に言うの!」
君枝ちゃんは塁の肩をバシっと叩いた。何処か冷静な自分が、君枝ちゃんは男の肩を叩けるほどに成長したんだな、と思う。
「だって三人で喋ってるんだもん、いいでしょが」
ポテトを頬張りながら塁はお構いなしに話を続ける。
「その好きって言葉がさぁ、引っ掛かるんだよ、俺は」
ポテトにケチャップを少しつけ、君枝ちゃんに「ん」と渡している。君枝ちゃんは「え」と言いながら受け取り、食べている。
「二人と付き合いたいの?それとも何、母性愛?」
母性愛という言葉が何だか可笑しくて、俺は発泡酒をちょっと吹いてしまった。
「ど、どっちでもないし。ただ何となく、好きだなぁって事。何でこんな場でばらすの!」
ばらすと言ったって、結局初耳なのは俺だけな訳であって、塁は俺にこの話をしたかったのだと納得する。
またポテトを一つ、君枝ちゃんに渡している。
「智樹はどうなの、矢部君の事好き?」
いきなりの質問の振り方に驚いた。あまりに驚いて暫く口が開けなかった。君枝ちゃんは俯いてしまっている。
「好きかって訊かれたらそりゃ好きだけど、あれだ、好きだなぁって事。お前、何が言いたい訳?」
フフッと不敵な笑みを浮かべた塁は「お前はどうなんだよ」という俺の攻撃に、一度チューハイを口に含んでから答えた。
「好きだなぁって。好きなんだよ。多分これ、智樹には負けてないよ。好き度が」
本気で言ってるのか、冗談で言ってるのか分からない塁の言草を、俺も君枝ちゃんも苦笑しながら話半分で聞く事にした。
もう酔っているんじゃないかと疑ってしまうぐらい、塁のテンションはおかしなものだった。
「塁、どうしちゃったの」
塁がトイレに立った隙にすかさず君枝ちゃんに話しかけた。
「前に塁と智樹君がちょっとアレだった事があったでしょ、あの時に、二人の事が好きだから戻って来て欲しいって、私が言ったの。それを突き詰めて話したいっぽい」
何だ、そんな事なら友人としての「好き」に決まってるじゃないか。誰がどう聞いても、そう思うだろう。
が、塁にとってはその「好き」がどの「好き」なのか、気になったのだろう。何故なら、塁は彼女に惚れているから。そして俺も同じだ。「好き」が友達としての「好き」でなければいいのに、と思う、塁と同じ種族な訳だ。
「それにしても、何か塁の様子おかしいよねぇ?そう思わない?」
確かに、まだ酎ハイを数本呑んだところなのに、目は据わっているし、トイレに行くにもふらついていた。
そこへ、ふらつきながら壁に手を突いて塁が戻ってきて、膝から崩れるように俺の足元に倒れ込んできた。
「塁?大丈夫か?」
背中を触るとかなり熱く、首の後ろを触っただけで熱があると分かる程だった。
「ちょっとお前、横になってろ」
俺は塁を抱きかかえ、畳敷きの部屋に連れて行くと、塁は「矢部君呼んでよー」としきりに言っていたが、俺は無視した。君枝ちゃんにも「来なくていいよ」と言った。
押入れから毛布を一枚出して、掛けてやる。
「気持ち悪くなったりしたら呼べよ。他の用事で呼ぶんじゃねーぞ」
そう言って俺は塁の傍から離れた。
「風邪かなぁ」
心配そうに和室の方へ目を遣る君枝ちゃんに「そうかもね」と曖昧に返した。
俺は焼き鳥の串から肉を全て落とし、食べやすいようにしてから箸でつついた。
「焼き鳥旨い。君枝ちゃんも食べな」
彼女も「いただきまーす」と言いながら箸を伸ばした。
去年の今頃の彼女なら考えられない。男とこんなに近くで話して、一緒にご飯を突き合うなんて。
彼女自身、努力した結果だろうと思うが、悔しいけれど塁の力は大きかったと思う。
あいつが持つ、ちょっと中性的な感覚が、君枝ちゃんの緊張を解いて行ったんだろうと。
和室から、盛大な寝言が聞こえたが無視した。君枝ちゃんの耳にも入ったからだろうか、彼女の髪の隙間から除く耳が、真っ赤になっている。
「塁、君枝ちゃんの事が本気で好きなんだよ」
君枝ちゃんは箸を置いて、動きを止めた。「誰がそんな事......」
「分かるんだよ、あいつと何年一緒にいると思ってんの。だから君枝ちゃんが言った好きっていう言葉に拘ってるんだよ」
んんーと言葉にならない唸り声をあげている。
「私はどうしたらいいんだろう」
俺に訊かれても困るなぁと思うのだ。彼女が、どうにかする気があるのかないのか。それは俺にも関わってくる事なのだから。
急に拓美ちゃんの大声が響いた。
「ちょっと至君連れて二人で居酒屋行ってくる」
荷物とコートを抱えて、二人は玄関を出て行ってしまった。眠っている塁をのぞけば、君枝ちゃんと二人になってしまった。