深海の熱帯魚
20 久野智樹
「ちょっと風に当たってくる」
そう塁が言う前から、君枝ちゃんが席を立っていた事は知っていた。
そしてその後、塁が君枝ちゃんを探し回っていた事も。
全て、先んじて塁がやってしまう。俺は後手にまわる。
今日は後手にならないように、強引に手を引いて、彼女を海へ連れ出した。彼女は笑っていなかった。あれは逆効果だったのだろうか。
彼女の、心からの笑顔が見てみたい。俺達に恐れをなさない、綺麗で澄んだ笑顔が見たい。そんな気持ちから彼女に惹かれているんだと、今になると分かる。
目の前で二人の男女が酒の力で盛り上がっている。話を聞くところによると、拓美ちゃんは森という助教の事が好きで、だけど至は諦めないとはっきり言っている。
至は諦めが悪い所が長所なのだ。「それでも拓美ちゃんが好きなの!」と本人を前に言ってしまっている。
そして塁の長所はは行動力。さっさと君枝ちゃんを探しに行った。
俺は......一人でぐいぐい酒を呑んでいるだけだ。なんの長所も特徴も無いな、と一人ごちてみる。その酒だって、自分の技量を知ってるから、無茶して呑む事もしない。
立ち上がり、部屋の窓の桟に身体を預けて下を見た。しかし二人がいる様子はない。
俺も少し酔いが回ってきたし、二人を探しついでに、と思いつつ部屋を出た。
非常口にでもいるんじゃないかと思ってスリッパのまま非常口に出て、二階から一階へと降りてみたが、スリッパのパタパタという音が響くだけで二人はいなかった。潮風が、すっと耳元を掠める。
窓から外見た時は誰もいなかったから、海じゃないよなぁと思いながら玄関にたどり着き、俺は足を止めた。
視線が固まった。塁と君枝ちゃんが並んで座っている。
手と手を、握っている。
俺は手の平に、感じた事も無い気味の悪い生ぬるい何かが浮き上がってきた気がして、それをベージュのショートパンツに擦り付けた。俺は何も見なかった事にして、そのまま部屋に戻ったが、勘の鋭い塁の事だ、俺の存在に気が付いたかもしれない。
だからって、どうしろと言うのだ。あの状況で、俺は何をすればいい。
俺は部屋に戻り、再び酒を手にした。相変わらず、至と拓美ちゃんはどんちゃん騒ぎだ。俺はあの光景を見て酔いが一気に覚め、更に酒を追加したが、どんだけ呑んでも酔わない気がして、途中で酒をやめた。
それからおもむろに立ち上がり、掃出し窓からベランダに出て、塁達が戻ってきた事にも気づかない位、ずっと海を眺め、潮の音を聴いていた。
「智樹君、大丈夫?」
ふと振り返ると、掃出し窓を開けて君枝ちゃんがベランダへ出てきた。俺は目を合わせられなかった。
「もしかして、酔っぱらってる?」
俺の顔を覗き込もうとしているのが分かり、俺は顔を背け「大丈夫」とだけ言った。
ふーんと言って彼女もその場に座り込み、海の方を向いた。
「きょ、今日はごめんな」
俺はそんなに酔っていないのに、うまく言葉が出てこない。彼女は怪訝そうな顔でこちらを見遣った。
「何が?」
「あの、海に、強引に、引っ張ってっちゃって、その」
しどろもどろになるっていうのはこういう事を言うのかと、一人で納得した。君枝ちゃんは静かに笑って下を向き、口を開いた。
「いいの。みんな優しいから、リハビリが捗ってる。さっきもね、塁とその話をしてたんだ」
俺は部屋の方を振り返った。塁が缶チューハイを飲みながら壁を背に、死んだ魚のような目でこちらをじっと見ている。視線で殺されそうだ。
「さっきのも、その、リハビリってやつ?」
「へ?何が?」
彼女は何の事かさっぱり分かっていない様で、小首を傾げている。上気した頬と相まって、いつもより可愛く見える。
「さっき、塁と手、握ってたよね」
言いながら心臓が締め付けられるように痛かった。なぜ塁なんだろうか。彼女は明らかに狼狽えている様子で顔を左右に揺らしている。言わない方が良かったか。
「あれは、その、流れ的に、うん。リハビリ、の一環」
そう言って作り笑いをこちらに向けた。こんな笑顔、嘘を吐く時にしか使わないだろう、普通。
さっきの数十分で、二人の間に何かがあったんだろう。
塁が告白した?それも十分考えられる。結果どうなった?二人は一緒に戻ってきたのか?俺はそれを見ていない。でも君枝ちゃんは普通の様子で俺に話しかけてきた。となると、そう深刻な話にはなっていないと予想する。
「君枝ちゃんさぁ」
俺は思い切って口を開いた。真横に座っていた君枝ちゃんは、俺を警戒してか、少し距離を取っている様に感じる。その顔が、こちらを向いた。
「まだ俺の事とか、怖い?」
俺は彼女に目線を合わせると、瞳が左右に揺れているのがはっきりわかった。やっぱりまだ......「大丈夫」はっきりと通る声で彼女が答えたので、俺は少し驚いた。
「智樹君は私に何もしないって分かってるから、怖くない。でも、男の人、って包括的に考えると、怖くなっちゃうんだよね」
首を傾げながら頭の辺りをペタペタ触る仕草が可愛らしかった。
「智樹君、って考えればいいのかな、塁、とか至君、とか。個人名でさ」
俺はゆっくり頷いて「そうかもな」と呟くように言った。俺は一大決心をした。
「じゃぁさ、俺の手、握ってくれる?」
ベランダのコンクリの上に俺は手の平を上にして置いた。拒否されればそれまでだ。塁との間に歴然とした差を認めざるを得ない。
彼女は俺の手と俺の顔を順番に見て、それからおずおずと白く細い腕を差出した。そして小鳥でも掴むように柔らかくそっと、俺の手を握った。
「良かった」
俺は安堵から来る笑みを零した。きっと今日一日で一番の笑顔になったと思う。
「良かった」
君枝ちゃんも握った手をそのままに、笑顔を覗かせた。今日一番かどうかは分からないが、俺が君枝ちゃんに出会ってから初めて、柔らかい笑顔に会えた。
「暫く、握っててもらってもいい?」
特に理由なんてなかった。ただ、繋がっている事が嬉しかったから、そう言った。
「うん、いいよ」
手の平から暖かい何かが伝わってくるのだけれど、それを真後ろから遮断するように視線を送ってくる塁がいる。そのうち後に何かが動く影が近づいて来て、塁だと分かった。
ガラガラと窓が開いて「なーにしてんの」と棒のような喋り方で言葉を浴びせてきたので、彼女は「ヒャッ」と言って手を引っ込めた。
「進歩しましたねぇ、矢部君」
そう言うと、ベランダに出て、俺と君枝ちゃんの間にドンを座った。
「あの酔っ払いのお二人さんはさぁ、きっと二人で寝るっつーか、寝るかどうかも分かんないから、俺ら三人分の布団を敷こうと思うんだけど、さて、どうやって寝る?」
一気に捲し立てる塁を見て、君枝ちゃんは目をぱちくりさせている。俺は今になって、そうか、同じ部屋に寝るんだったと気づく。
「私はどこでもいいけど......」
そう言うと思っていたが、そう言ったか。と思ったら急に「やっぱり端っこ!」と叫んだのは君枝ちゃんだった。
「じゃぁ端っこは矢部君。じゃぁその隣は?俺?智樹?」
端っこを選んだ君枝ちゃんの意図がよく分からないまま、俺は選択を迫られていた。