金木犀の薫り
クラブ華
忘年会の帰り、ぼくは繁華街の裏道を歩きながら駅に向かっていた。路地から30歳代の女性が飛び出して来た。
「助けてください」
女性はぼくの腕にしがみついて来た。強い化粧の臭いがした。
「この女(あま)」
直ぐに後を追って来た男の声がした。
3人の男たちであった。
「あんたの女か」
「いや、そうじゃないが知り合いだ」
「そうか、この女は足抜けをしやがった。200万の借金を返さずにだぜ」
「嘘です。借金等していませんよ」
「ふざけたことぬかすな」
男の言葉と同時に女性の顔に平手打ちがされた。
ぼくは反射的に、その男の腕を掴んでいた。ぼくは柔道3段である。
攻撃的な事には、体が反応してしまうのだ。相手は男が3人である。喧嘩になれば勝てる訳がない。
「暴力は止した方がいいよ」
その言葉の終わらないうちに男の拳がぼくの顔面に近づいて来た。
その腕をとると足払いをした。男は叩きつけられた。
「川田先生か」
兄貴と呼ばれた男が声を出した。
突然に自分の名前を呼ばれ、その男を見たが思いだせなかった。
「山田ですよ」
そう言われてようやく思い出し
山田が高校3年生の時に、飲酒と喫煙で退学寸前の所を、生徒指導部長であった僕が停学処分の裁定を下した。校長も了解したが、その条件に校則違反があれば即退学との誓約書がつけられた。所が停学処分の自宅待機に外出して喫煙で補導されてしまったのであった。
生活安全課の警察官は、幸いに教え子であり、学校宛の文書は送らないと約束出来た。
山田は無事に卒業した。
「何の仕事をしてんだ」
「見て解るでしょう」
ぼくが思った通りやくざのようであった。あれから15年ほど過ぎているだろう。
33歳になるのかもしれない。
「佳織良かったな。この事は終わりにするよ」
「この人とは話が済んだってことか」
「先生への恩返しですよ」
山田は男たちと歩きだした。
「ありがとうございます。先生ですか」
ぼくは軽く頷いた。
「今日は同伴の日なんです。約束したお客から余り待たせたのでキャンセルされてしまって、お店に来て下さいますか」
ぼくは彼女と店に行くことになった。
クラブ華は大塚弘子から名刺を貰った店であった。ホステスは10人ほどいるようであった。
大塚の源氏名は知らなかったので、佳織と話をしながらホステスの顔を見た。
それらしい顔は見当らなかった。
「ねぇこの人チンピラから私を守ってくれたのよ」
佳織は同席のホステスに自慢そうに話した。
「男前でヤクザより強いなんて信じられない。もいしかして制服着て仕事している方」
「違うことは確かよ」
ぼくはさんざん飲んでいたので酒は飲みたくなかった。それよりは電車の時間が気になっていた。
「時間ばかり気にして、泊めてあげるわよ。今日のお礼に・・・」
「初めてのお客様に何ですか」
「ママ、助けて頂いたんですよ」
「この方はママが責任もってお送りします」
ぼくはママを見た。大塚弘子であった。
ぼくは大塚弘子を見て安心したのだろうか、ソファーに倒れた。
そのまま眠ってしまった。
男に抱えられながら車に乗った記憶があった。
車の振動が心地よく、ぼくはまた眠ってしまったようだ。車から降り少し歩いた記憶がある。
しかしその後はまた眠ったようだ。
はっきりと目を覚ましたのは、ベットの上であった。自分の部屋でない事が直ぐに解った。
それは部屋には良い香りが漂っていた。初めは何の香りか解らなかったが、金木犀であることに気が付いた。部屋を見渡すと、着物がきちんと畳んであった。それがソファーに置いてある。シャワーの音が聞こえた。
ぼくは佳織を思い出した。そして、大塚弘子を思い出した。2人のうちのどちらかの女性がシャワーを浴びているのは確かである。
いくら思い出そうとしても、彼女たちの着物の柄は記憶になかった。
ぼくはふと金木犀の薫りから、この部屋に居るのは大塚弘子であると確信した。
バスローブを着て部屋に現われたのは、ぼくの思ったように彼女であった。
今のぼくは彼女がどんな状態であっても身体を求めたかった。
「何か飲む」
彼女はそう言ったが、ぼくはそれには答えずに、彼女の唇を塞いだ。
ぼくにとっては昔のままの感触であった。胸元を開け、乳房に口を当てると、そこには小さな蝶の刺青がしてあった。
ぼくは一瞬愛撫を辞めた。
「驚くわね」
「ちょっと」
「男避けよ」
「結婚してるんだろう」
「1年で別れたわ」
「早くその事知りたかった」
「2000キロ旅する蝶よ。アサギマダラって」
「聞いたこと有る」
「普通の男ならやくざがいると思いこんでしり込みするし、やくざだってバックには大物がいるって脅せるわ」
「何のために刺青を・・」
「川田君のためかもしれないわ。独身でいるって聞いたから、別れてから、いや別れたの、待ち続けた」
彼女はバスローブを脱ぎ捨てた。
ぼくは無言で彼女を抱きかかえ、ベットに運んだ。
2000キロを飛び続けた蝶の羽はぼろぼろに傷ついていた。漂う金木犀の薫りだけは、2人を高校生に戻してくれるかのように、部屋に満ちていた。
激しくお互いを求める体は、汗となり、涙ともなりながら、愛撫だけが言葉となって、2人の距離を埋めて行った。