文士ごっこ(prototype)
「遅い」
呟いたつもりの声が思いの外響いたような気がして、入江まゆみは口を押さえた。
文豪が足繁く通ったという歴史のあるホテルのロビー、その壁際に据えられたソファに腰かけて入江は人を待っていた。一緒に宿泊する相手ではない。少なくとも入江にはその予定はない。
「はあ、面倒くさ……」
今度はロビーに響かないようにため息に紛れ込ませるがごとく呟いた。入江が持つA4の茶封筒には
『三並均さま 文豪への誘いプラン』
と記されていた。下四分の一には出版社名が記載されている。入江の勤務先であった。
「なんで私なんですか」
半年と少し前、決算期を目の前にした入江に上司から告げられたのは異動命令であった。入江は新卒で入社してから間もなく営業へ、三年目以降は希望だった編集部に回り、小説誌の編集者として従事してきた。上司が告げた移動先も編集者という立場に変わりはないのだが、原稿を取りに行く相手が今までとは変わるのだ。
「選考の理由は俺にも解らん。なにしろうちの社にとっては新規事業でもあるし、若いのを一丁欲しかったってところかもな」
「私、豆腐でもラーメンでもないんで一丁って言われても」
入江の無愛想な返事に上司は苦笑した。竹を割ったような感じってよく言うけど彼女は割った竹割りっぱなしって感じだね、と入江の受け持ち作家が以前言っていたのを思い出したからであった。
「まあそこらへんの重箱の隅はさておいて、自費出版ってのも今までの現場とまた毛色が変わって面白いんじゃないかな。これからの経験積むにも損ではないと思うけど」
「そうでしょうか」
上司の言葉にも入江は未だ疑念を隠さなかった。
「四月から移動として、正式な立ち上げは上半期にはできませんよね。なにしろ新規事業ですし? その間せめて掛け持ちだけでもさせていただけないんですか。小林先生の連載はあと三回なんです。最後まで見届けさせてもらえないんですか?」
上司が表情を歪め、眉間にくっと皺が寄るのを入江はじっと見つめた。
「その件については俺も交渉してはみたんだが、掛け持ちはNGだそうだ。新事業に専念させろってよ。……残り三回分は俺が見る。小林先生にはさっき連絡したから、献本分が来たらそれ持って最後のご挨拶行って来い。それしか俺には言えん」
ここまで言われてやっと入江は、目の前の上司が自分をこの部署に残すために出来るだけの努力をしてくれたのだということに気付いた。
「わかりました」
未だ眉間の皺を深くする上司にこれ以上ごねてもいいことはない、と入江は気持ちを切り替えることにした。
幸いにして自費出版事業部の部長をはじめ編集・営業共に顔見知りも多く、準備期間明けには事業部初の本を一冊上梓できることとなった。そして部の正式始動と共に話題作りの一環として、過去に文豪が定宿として愛したことのある老舗ホテルが出しているプランに「担当見守りサービス」をオプションとする提携サービスを営業が持ち込んできた。
「これさあ、どのくらいの人が申し込むんだろうね」
「さあ、少なくとも先方さんのプラン自体はそれなりに好評らしいし、蓋を開けてみないことにはねえ」
そんな部内の期待とは裏腹に、自費出版の相談はしても宿泊プランまではと二の足を踏むクライアントが多く、先のプランを取り付けた営業担当は肩身狭そうに印刷所回りをすることが増えた。
そんなある日、相談と同時に宿泊プランを、という申し込みが舞い込んだ。抱えていた案件がひと段落ついた入江に白羽の矢が立ったものの、入江本人は不服気な様子を隠さなかった。
「この方、まだ原稿の内容について教えてくれないんですよ。それはその時にって。大丈夫なんですかねえ?」
「うーん、でも相談までは無料って謳ってあるし、どうせ宿泊にしてもオプションにしても向こう持ちなんだから入江が心配することじゃないよ。やっぱり無理ですって言われたらまたご縁がありましたら、でいいんだよ」
現部署の上司に宥められはしたものの、入江の胸にはクライアントに対しての不安しか浮かばなかった。
そして当日。
チェックイン予定時刻になってもクライアントである三並という男は姿を現さない。ホテル側が気を遣って茶を淹れてくれたが、時計の長針が一回転するまでただ座して待つのは入江の性に合わず、手帳を開いては三並の携帯電話にかけ、電波が届かないか電源が入っていない、という冷たい機械音声にうなだれるのを繰り返すこと三回、途方に暮れながら冷めた茶を啜り、おかわりを辞退してしばらく経ってからようやく待ち人は現れた。
「えーと、イリエさん? 『文豪への誘い』プランをお願いしたミナミですけども」
呼びかけられた入江がうなだれた面を上げると、中小企業の管理職をしていました、という風情の男が立っていた。事前に聞いていたプロフィールによれば中堅メーカーを昨年定年になったはずだが、現役時代あんたの会社に報告・連絡・相談、略してホウレンソウはなかったのか、と言いたい気持ちをぐっと押さえて入江はなんとか微笑みに似た表情を形作ることに努めた。
「ああ三並様、お待ち申し上げておりました。ご無事でなによりではありますが、ご予定のチェックイン時間から大分経っていますし、ご連絡もいただけませんでしたのでもう少ししたら一旦社に戻ろうかと思っておりました。携帯に何度かご連絡したんですがお出になりませんでしたので」
言葉の端々に表れる棘を隠す気さえもはや入江にはなかったが、そんな気持ちを知ってか知らずか、三並はのんびりと口を開く。
「ああ、ちょっとばかり電車を乗り過ごしてね。それに携帯なんか要らないだろ、折角缶詰めになれるプランなのに」
他人を心配させといてこれか、と怒るエネルギーさえ挫かれた入江はこれ見よがしにため息をついてみせた。
「まあ、ご無事だったってことでよかったです。それじゃチェックインもお済みのようですし、お部屋までご一緒します。お荷物お持ちしましょうか?」
三並が提げているトランクは茶色い革張りで、使い込まれて傷や擦れがあるもののこの古いホテルに似つかわしい。
「いや結構。こう見えてもなかなか重たいんで女の子に持たせる重さじゃないからね」
「女の『子』って歳でもありませんけどね」
もうすぐ三十の足音を聞く年頃の入江が答えると、三並は唇を歪めて皮肉気に微笑んだ。
「そうやってむきになって否定するうちは女の子でいいんじゃないの、図々しくなるとお化けみたいな歳の女が自分のこと女子とか言ってるからね。更衣室と便所以外で誰がてめえなんか女子って分類するかっていうようなのが浮かれててバッカじゃなかろか」
もう返事さえも面倒くさい、と入江は答えの代わりに再びため息をついた。そのため息は先刻より力無く、午後のロビーに響きもせずに消えた。
作品名:文士ごっこ(prototype) 作家名:河口