夏|朝顔
ふと目が覚めて、呉服屋ももうそろそろ帰る頃だろうと、挨拶くらいはしなくてはと起き上がった。
また廊下を戻っていると、裏庭に呉服屋の息子が立ち尽くしているのを見た。朝顔を見ているようだ。
「何か?」
「あ、いや。えらく茂っているなと」突然声をかけられて、驚いたようだ。
「小学校の課題で、朝顔したでしょ。その種をそこらへんにばら撒いたらこうなったの。何年経っても枯れやしません」
あまりしゃべらないと思っていたのが、思わず声を聞けたものだからつい饒舌になっていた。すると彼、達也の手にはすでに萎んだ朝顔の花がいくつかあった。
「それ、どうするんです?」
「はい、これは色が出ますから、ちょっと頂いて遊んでみようかと」
「へえ」そういえば色水と言って遊んでいたなと思い出した。
「ちゃんと咲いたらどんな色ですか」
「紫です。いや、青かしら。ちょっと光っているような色です」
「へえ」
これは染料になるのかしら?と尋ねると絵くらいは書けるのじゃないでしょうかという。
「じゃあいくらきれいでも」花を摘めばいいのではないのね、と納得した。
「お嬢様は着物はお嫌いですか」
「澄子です」
お嬢様、などという柄ではない。彼、達也の目をまっすぐに見てきっぱりと名乗った。達也は少し怯んだようだ。
お互いに、親同士のおしゃべりに辟易して部屋を飛び出したのだとなんとなくわかった。性質が似ているのだと思った。
「好きでも嫌いでもないんです。でも今は流行らないから」
そこまで言って、口元を抑えた。呉服屋の前で流行らないなんて。「はは、確かに」青年らしい朗らかな笑いだった。さきほど応接間にいたときのあの仏頂面とは別人のようだ。
「よろしかったら、午前に花が咲いてるときにいらして。今はこんなですけど、朝は見事なんですよ」
さっきの非礼を詫びるかのように、今度は少し控えめだった。こんな簡単な草花に興味があるのだったらそれでなんとか機嫌をとれればと思ったのだ。
「それはありがたい。寄らせていただきます」
その後澄子は達也が訪ねてくるのを待った。毎朝裏庭や門をうろついた。3日ほどしても訪問は無かった。1週間を過ぎてあきらめて泣いた。
さらにしばらくして呉服屋の使いが仕立てた浴衣を届けに来た。母はこんなの頼んじゃいませんよと追い返そうとしたが、うちの達也さんからなんです、お嬢様にってだけ言われて来たんです、と騒いだ。それで澄子は玄関へ出て受け取った。畳紙をほどくと白地に鮮やかな朝顔が描かれた浴衣だった。達也の最初の仕事だと言われた。
澄子は、今まで焦がれて苦しんでいたことなど忘れた。
描かれた朝顔の色は裏庭の朝顔そのままだった。
この体に朝顔がからまって咲けば面白いと考えていた。それを彼が叶えてくれた。苦しかったが、あの蔓にからまるには、一晩じゃ足りなかったのだ。