梨華姫
終.月隠す雲、花散らす風(宴・当日)
純白の梨の花を誉めたたえる歌を詠みながら、あずまやで酒を酌み交わす宴の参加者を鬱陶しそうに一瞥すると『梨華姫』はひっそりこっそり自分だけの穴場へと引き上げていた。所詮引きこもりである彼女にとって、ひとが密集している環境というのは珍しい見世物であっても、辛抱してまでいる価値のある場所とは思えないのだった。
こうして、下心だらけの男共が恩家の梨華姫を見る機会は、失われたわけである。
梨咲苑の名は伊達ではなく、広い院子の何処でも花を楽しむことが出来た。なんとなく歩いていると唐突にぽつんと一本だけある梨の樹木にぶつかったりする。怜蘭がいるのは、そんな誰からも忘れ去られたような場所のひとつだ。喧騒は遠く、ゆったりとした時が流れている中で、真白の花を見上げる。
(此の木は)
誰にも気づかれないように、そっと花を綻ばせ。
人知れず咲き続けるのだろうか。
今年も、次の春も。そのまた次の春も、こうして。
たとえば、視線に晒された分だけ、その色がくすんでいくのだとしたら。寿命をすり減らしていくのだとしたら。梨華宴の参加者たちが、今まさに愛でている花はその樹木ごと、とっくに朽ち果ててしまっているに違いない。
それとこれと。
果たして幸せなのはどちらなのだろう。
「ね、檸爍さま? わたしは良いのです、連れてきてなんていただかなくとも邸でお留守番していますから! さあ、どうぞおひとりで。梨の花でも何でも見てきて下さい。ただし浮気は許しません」
「ええい、今さら抵抗するんじゃない。もう手遅れだ…っておいちょっと待て浮気ってなんだ」
巡る思考の中に身を沈めていた怜蘭の元へ、風に乗って間の抜けた会話が届いた。距離があるので確かなことは言えないが、声の調子からすると男女二人らしい。恋人同士か何かだろうか。
「……?」
一方の声、甲高い娘の声になんだか聞き覚えがあるような。はて、いつ耳にしたのだったか。何とはなしに考えていると、聞き覚えどころの騒ぎではない人物がそこに加わった。
「いらっしゃい。…玉瑞ちゃん、連れて来てくれたんだ」
「そういう約束、だっただろう?」
(やくそく…)
遼李は、まぶしいものでも見るかのように樹上に視線を寄越す。
「怜蘭!」
そして大きく、手を広げた。
刹那、身体が勝手に動いていた。
腰かけていた枝から何の躊躇もなく飛び降りる。そこにあるのは絶対に受け止めてくれるという安心感。
待っていたのは優しい腕、そしてやわらかな抱擁。
「言っただろう、紹介したい人がいると」
◇◇◇
『……玉瑞を?』
『ああ、そうだ。君ら二人を梨華宴に招待するから連れて来てくれ』
『別に構わないが、何故…』
『私の手で籠を開けることは出来なくとも、外の世界を見せてやれるだろう』
(あの子は)
あらゆることから遠ざけられて育って。でもそれが普通で、当然のことなのだと思い込まされていた。
最初はこの手につかまりながらでも良い、それでもいつか。
自分だけの力で前へ進める様に。一歩踏み出せるように。
(だから私は、)
背中を押す。
「これが私の友人で遥檸爍、で、この娘が…」
「子猫ちゃん」
「違う! ……遥、玉瑞です」
決まり悪そうに視線を逸らした玉瑞に微笑みかけてから、怜蘭は兄の友人に向かい合った。
「初めまして、檸爍様。私は貴方のことを軽蔑します」
「……へ?」
「大っ嫌いです、傍に寄らないでください。幸薄いのが伝染ります」
「どうして初対面の相手にそこまで荒っぽく貶されてるんだ、俺は!」
「えーっと、一昨日きやがれ?」
「まだ言うか!」
微笑ましいもの――たとえばじゃれあう子猫とか――を見ているような穏やかなまなざしを二人に向けつつ、遼李は玉瑞に尋ねる。
「…ねえ、玉瑞ちゃん。なにかした?」
「は、はは」
「ま、良いけどね。楽しそうだし」
眼前の男を凹ませるような言葉を次から次へと発していく妹は、不思議と生き生きして見える。そうか、そういう性質だったのか、いやあまり知りたくはなかったけれども。兄としては複雑な心境である。
「責任とって、あの子の友達になってやってくれないかな。お兄さんにはこの件、黙っておくからさ」
「……拒否権、ないんですね。で、でもわたしの目的は達成したも同然ですし」
『梨華姫』と檸爍の仲を徹底的にぶち壊すという。単純明快な目的は、達せられたかのように見えるがしかし。
「さあてね、それはどうかな。私は妹の幸せの為ならどんな手段でも使って見せるよ?」
「ではわたしは、兄の不幸せの為にとことん手を尽くしてみせましょう、絶対に負けません」
そんなどうでもよくない戦いが本人たちの意識の外で始まっていたことなど、苦労体質の兄も、引きこもり美食家の妹も知る由もなかった。
fin.