梨華姫
序、恩家の梨華姫(一日前・表その二)
国都、瑛杏にある恩家の邸は別名、梨咲苑と呼ばれている。
毎年、変わることなく純白の花の美しさを先帝が称えてつけられたものだとか、開花の時季を見計らって院子で催される梨華宴を指して呼ばれたものだとか、由来は諸説ある。
印章にも用いられているがゆえに、恩家に縁のあると考えられがちな梨の花であるが。ひとつ、その花が原因で厄介な噂が生じてしまっているのに気が付いていない恩遼李ではなかった。
長い回廊をゆったりとした足取りで歩いていく途中、出くわした侍女にあれの所在を問えば「亭にて、いつものようにしておいでです」と苦笑まじりの返答。
彼女と似た微苦笑をうかべつつ、礼を述べて院子の方へと向かう。
緑萌える春の庭に甘い花の香が充満している。
恩家自慢の梨の木は、ありとあらゆるものが死に絶えた厳しい冬を看取り、再生と始まりの春を迎え入れると、ここぞとばかりに真白の花を綻ばせた。その様子は可憐そのもの、まるで汚れを知らぬ娘のように清らかな美を誇っている。
花を眺めるのに最も適した場所に、と考えられて配置されたであろう亭には侍女の言った通り、ひとりの娘がいた。
漆黒の髪は結いあげられることはなく下ろされたまま、しどけなく背中側に垂らされている。やわらかな風に吹かれ、時折靡くその美しさは、思わずひと房手に取り、くちづけを落としてしまいたくなるほど。温かな陽光が照らす出す娘の肌は、そこだけまだ冬の名残を感じさせる、雪のような白さだった。
「ご機嫌麗しゅう、我が妹君」
声をかけると、静かに振り返る。
最初はぼうっとしていたのか、遼李の姿をすぐには見出せないようだったが、一歩前に歩み寄るとさすがに分かったらしく、兄さまと小さく呟いた。その声に表れたかすかな驚きを感じ取って遼李は含み笑う。
あずまや自体に華美な装飾がなされていないだけに、花の美しさが際立つ。彼女の場合もまた、同じこと。
「今日は何をしていたのかな、怜蘭」
「……梨の花を」
「見ていたのか」
はい、いえ、と随分曖昧な言葉を呟きながらしばし考え込むような素振りを見せる妹を微笑ましく見守っていると、
「美味しそうな匂いだなと思って。実際口に含もうと手を伸ばしかけたところなの。どうです、兄さまもご一緒に」
実に残念な答えが返ってきた。淡く色づいた唇に白い花を寄せる仕草はそれなりに色めいて見えるが、何がどうなったらそれを食すという発想に辿りつくのか。兄には理解不能であった。
町中で擦れ違えば振り返らざるを得ない程度の美貌の持ち主であり、どちらかと言えばという曖昧な二択ではなく美少女の部類に入る彼女が花を眺めている様を見て、「涎をたらしながら、どうやって食い物として扱えるかを考えようとしているのだろう」と思うやつは誰もいまい。
「…私は遠慮しておくよ、お腹がいっぱいなのだ」
「それは残念至極。人がやろうとしないことを試みる者というのは、常に孤独であるものなのね……ああ、私は色気・若さ・気遣い等など他のすべてのものを失ったとしてもこの探究心だけは失わない。そんな求道者でありたい。そう思います」
一体、妹は何の道を究めるつもりなのだろうか。むしろそんな情熱は早いところ捨ててしまえと思わなくもない兄である。
嬉々とした表情を浮かべ、指先でくるくる花びらを弄ぶ様を見て、遼李はいよいよ心配になった。美食家というか、食い意地が張った娘だとは前々から思ってはいたが、まさか料理人になるとか言って酒楼や茶館にもぐりこんだらどうしよう。
ふと頭に過ったのは先日聞いた同僚の話である。有能な官吏を多く排出している名門中の名門である遥家の一人娘が出奔したという知らせは、彼女が行方を眩ませたのと同じ日の夕刻には瑛杏に広く知れ渡っていた。
姿が見えなくなってすぐ、召使たちは青くなって姫君を捜索したとのことだが、最終的に見つけたのは行方をくらまして数日後のこと。酒楼で給仕しているのを、偶然そこにふらりと立ち寄った兄が見つけ、邸へと連れ帰る、というなんとも情けない事態に陥ったらしい。
その苦労人ぶりがもはや評判となっている男は、邸まで妹を送り届けてから出仕したらしく、かなり疲弊した様子だった。そんな友を見て遼李は深く同情した。
「それに可愛い子猫ちゃんも見つけたのでした…逃げられちゃいましたけど。思えば今日は実りの多い一日だったなあ」
「そうか……それは、良かったな?」
相も変わらずすっとぼけたことを言う怜蘭だったが、一応年長者の何とやらで乗り切ってみた。あいつだったらどうするのだろうか。院子中を走り回って猫探し? …ひとのいいあの男ならやりかねない。
まあおそらく、友人と自分では妹との関係などまったくちがうものになるんだろうが。遼李はひとりごちる。不思議そうに首を傾げておいでの姫君に何でもないよと手を振りかけたものの、ふとそういえば用件があって此処に来たことを思い出す。
君に、逢わせたいひとがいるんだ。そう言えばどんな顔をするのだろうか。私の、麗しの梨華姫は。
『梨華姫』。
それは数年前から、一度も家の者以外に顔を見せたことのない彼の妹を評して呼ばれている名であった。