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数ミリでも近くに

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 目を見開く葉子に「ごめん」と一言、消えいるような声で健人は言った。
「本当はそれが目的じゃないんだ。話があって。どうしても二人で話したくて」
 葉子は崩していた脚を正座に座り直し、双眸で健人を見つめた。
「うん、どうした?何があったかお姉さんに言ってごらん」
 健人の顔を覗き込むようにして葉子が見つめて来るので、健人は我慢堪らず目線を外した。一世一代の大勝負。
「俺さ、葉子の事が、好きでさ。それを伝えたくて」
 葉子は、唖然として口を開いたまま、固まった。
「す、すき?え、何それ?私?」
「うん。葉子」
 言葉にして言ってしまった方が案外リラックスできるんだな、と健人は知った。逆に葉子は固まったまま健人から目線を外し、ぎこちなく頭を掻いた。
「健ちゃんは――健ちゃんの事は好きだけど、そういう好きとはちょっと違って、何と言うか、弟みたいに好き、なんだ。分かるかなぁ、この気持ち」
 これを聞いて恋愛対象から外れている事を自覚しない程、健人は馬鹿でも鈍くもない。
「うん、分かるよ」
「好きなんだよ?凄く好きなんだよ?でもそう言うのとは違うの。私、健ちゃんのお姉ちゃんみたいだから」
 必死になって「好き」を連呼する葉子もまた、可愛いくて残酷だなと健人は思う。
「そういう『好き』でも、俺は嬉しいよ」
 これは真実では無かった。そういう「好き」を求めている訳ではない。だけどもう、自分に勝ち目がないことが分かった今、彼女にしつこくまとわりつくのは男としてのプライドが許さない。
「これからも、今までと同じように、仲良しでいたいの。ほら、こういうのの後ってギクシャクするじゃん?そういうの、嫌なの。健ちゃんの事好きだから」
 毛足の長いラグをバシバシ叩きながら葉子は力説する。
 健人は黒縁メガネの向こうから、穏やかな微笑みを放つ。
「好きだ」と連呼されても、健人の手には入らない、葉子。
 それでも、想いを告げられただけで、自分は進歩したと思った。
 今までは晴人の後姿に嫉妬するばかりだったから。今は、晴人のいない舞台に立っている。
「健ちゃん立って」と促される。共に葉子も立ち上がる。
 目の前に立った葉子の両腕が、健人の身体を柔らかく包み込んだ。葉子の頭が、健人の口元をかする。
「こういうことしても、嫌じゃない位、健ちゃんの事は好きだから。これからも仲良くしてよね」
 健人は苦笑いしながら葉子の腰に手を回した。
 残酷な姉ちゃんを持ったな、そう思いながら柔らかな彼女の身体を優しく抱きしめ、片手で彼女のロングヘアーを撫でた。
 ほのかにシャンプーのような匂いが香った。
「実験の質問は、スミカにするから」
 彼女を抱きしめたままそう言うと、葉子は健人を突き放した。
「健ちゃん、初めからそのつもりだったな?私の知識を信用してないな?」
 ハハッと短く笑って、健人は部屋から去って行った。
 葉子はほっと胸を撫で下ろした。
 健人にはこういう事が出来るのに、何で、何で晴人には――。



.切欠


「葉子は部署のバーベキューだって」
「へ?このクソ暑いのに?」
 七月に入り、ダイニングキッチンを照らす天窓はカーテンで覆った。
 日差しが容赦なく照り付けるからだ。
 古びた脚立を晴人が支え、健人がそれに乗っかってカーテンを取り付けた。
「麦茶飲む人ー」
 晴人も健人も「はーい」とだる気に手を挙げた。
「俺、一杯飲んだら出かけるわ」
 晴人が誰ともなしに言った。
「このクソ暑い中、どこ行くの、兄ちゃん」
「彼女んとこ。ちょっと危機的状況でね」
 あちこちに散らばせた髪をぎゅっと掴んだ。
 スミカがお茶を三つ運んできて、テーブルに置いた。氷が涼しげで、健人はわざと指で氷を転がしている。カランカランと風鈴の様に音が鳴る。
「ねぇ、葉子とはどうなったの?」
 隣に座る健人に話しかけたのはスミカだった。
「そうだよ、その後どうなった?告ったの?」
 好奇心丸出しで向けるその顔が何だか可笑しくて、健人は笑ってしまった。
 ヒトってのは何でこうも、他人の恋愛に首を突っ込みたくなるんだろうか。
「あぁ、伝えたよ。好きだって」
「で、返事は?」
 スミカは健人の顔の間近まで顔を近づけて、訊いている。
「ちょ、近い。返事はまぁ、弟としてしか見れないって事だった」
 スミカは大げさに落胆する仕草をした。あくまでも仕草だ。
「それは残念だったね」
「いいんじゃないの?弟として好きだって事なんだろ?好きに変わりは無い」
 まぁね、と健人は間抜けな返事しか出来なかった。間抜けなのは兄ちゃんか。
 弟として好きだなんて、そんな返事は欲しくなかったんだ、本当は。
 俺は葉子の彼氏になりたかったのだから。
 葉子の事は俺が守りたかったのだから。
「さて、俺は自分の恋愛を立て直しに行ってくるわー」
 さも面倒臭げに顔を歪ませ、玄関へ歩いて行った。ブーツのジップを上げ、ドアが閉まる音がする。
 リビングは健人とスミカの二人になった。しばしの静寂を破ったのは、スミカだった。
「本当は、弟扱いなんてして欲しくなかったんでしょ」
 スミカの言葉にそれまで俯いていた健人は顔を上げた。
 外国の人形みたいな顔が、こちらを見つめている。こんなに整った顔の人間を、今まで見た事が無い。そんな事を思った。
「そりゃそうだよ。こんなにマイルドな失恋をする事になるとは思ってもみなかった。気を遣わせたのかも知れない」
 その聞きなれない言葉に違和感を覚えたスミカは「マイルドな失恋って?」と訊いた。
「最後に、抱きしめられた。こんなに残酷な事って、あるか?弟に、抱き付いて好きだなんて言う姉ちゃんが、いるか?」
 普段口数の少ない健人が早口で、珍しく自身を晒し出している。
 健人は自分の脚の間に顔を埋めて肩を震わせている。
「まぁ、今までは兄ちゃんに先手を取られてばっかりだったけど、今回は俺が先んじて行動できたし、後押ししてくれたスミカと兄ちゃんには感謝してる」
 少し震えた声を悟られない様に押さえてゆっくり静かに話そうとしているのが、スミカには伝わった。
 彼の痛みを、分かってあげたい。
「健人――」
 その声に健人はゆっくりと顔を上げた。健人の目尻に少しだけ、光る物を捉えたスミカは、思わず顔を近づけた。
 触れるだけの優しいキスをした。
 スミカの長い睫毛が、健人の頬に触れた。
 健人は目を瞬かせ、手品でも見せられたかのようにスミカを不思議な顔で見つめている。
 スミカは潤んだ瞳を伏せて「ごめん」と一言呟いた。
 そのまま自室へと戻った。


 玄関が開く音がしたのは夕方近かった。
 昼過ぎからずっと健人は、ソファに座ったまま呆けていた事になる。
「たっだいまー」
 声の主は葉子で、何も知らない彼女は馬鹿みたいに明るい。
「あれ、健ちゃん一人?」
「上にスミカがいるよ」
 ふーん、と言って健人の対面ではなく隣に腰掛けた。
「ちょっと見てよこれ、時計の痕くっきり日焼けしちゃったよ」
 半袖焼けもほら、と袖をまくって見せた。
 破壊的な鈍さだな、この人は。そんな風に健人は思い、視線を外した。
 エアコンの温度を一度下げた。顔が熱くて仕方が無かったからだ。



.二十五年

作品名:数ミリでも近くに 作家名:はち