博士の発明
皆が待ち望んでいたものだ。
”記憶を消せる道具”
博士はそれをそう呼んだ。
誰にでも消したい過去はある。
博士も人間だ。
少しばかりみんなより頭はいいらしい。
そんな博士にも消したい過去は山ほどある。
例えば、最近はこんなことがあった。
博士は恋をした。
近所の婦人にだ。
婦人はとても上品であった。
博士の毎日の日課である散歩のときによく会う。
いつも博士に挨拶をしてくれる。
それだけで博士は彼女に心を奪われた。
しかしそんな彼女にも裏はあった。
誰にでも裏はある。
彼女だって例外ではない。
彼女には盗み癖があった。
泥棒やスリの他には詐欺もやった。
生きていくためよ。仕方がないわ。
彼女はそう言った。
それには上品で清楚な方がバレにくいの。
彼女はそうも言った。
博士は彼女に告白することもなく失望した。
別に裏切られたわけではない。
彼女は昔からそうだったのだ。何も変わっていない。
しかし博士はとても傷ついた。
なぜだろう。もう彼女のことは忘れてしまいたい。
博士はそう思った。
さっそくこれを使ってこの嫌な出来事を消してしまおう。
博士はそれのスイッチを入れた。
そしてゆっくりと目を閉じる。
少しの静寂の後、博士は目を開けた。
何も変わりはない。
「さて、これはなんだったかな。
ああそうか。記憶を消す道具だ。忘れかけていたよ。
私はこれを使ったんだな。
なんのために使ったかを思い出せないということは発明は大成功だ。」
発明は大成功であった。
博士は喜んだ。
さて次は何を消してやろう。
博士は次の日もまた次の日もずっとそれを使い続けていた。
ちょっと買い物へ行っては会計を待たされたといって、
うちに帰ってからその記憶を消す。
毎日そんなことを続けていた。
博士の頭の中は楽しい記憶でいっぱいである。
あるとき、そんな楽しい記憶も本当は楽しくなかったように思えてきた。
幼いころ、家族で行ったピクニックも虫が多くて嫌になったように思える。
そうこうしているうちに楽しい記憶もどんどん嫌な記憶へと変わってしまった。
博士はどんどん記憶を消していく。
どんどんどんどん記憶を消していく。
ふと気づくと、博士の記憶はなくなっていた。
私はどうして博士なんだ?
どうやってここまで育ってきたんだ?
好きなものや嫌いなものは何だ?
わたしはこれから何をすればいい?
博士の記憶はもうない。
経験も何もない。
感情まで無くなってしまった。
そんな博士のもとへあの婦人が訪ねてきた。
私のことを覚えていますか?
彼女はそう言った。
「お前は。…ああ、あの泥棒だ!思い出したぞ!卑しい詐欺女め!出ていけ!」
博士は彼女に怒鳴った。
その瞬間、今までの記憶が一気に戻ってきたのだ。
しかしそれは嫌な記憶だけ。
楽しい記憶はもう戻ってこない。
彼女は少しさみしそうな顔をして博士のもとを後にした。