私たちの物語
日の傾いた薄暗い教室。机に頬杖ついた優里の瞳はまっすぐ雅貴へと向けられた。
生徒たちの楽しげな声が反響していた校舎は、いまでは足早に帰宅する微かな音が残るのみ。
優里の声は優しく静かに響いた。
「話?それって小説とか、映画とか?」
壁にもたれるようにして前の椅子に座る雅貴は、手元の文庫を軽く閉じて顔だけを優里へ向ける。
うん、とうなづく優里の黒目がちな瞳は雅貴をとらえて離さない。
まだあどけなさの残る、それでいて魅惑的な顔。
「推理小説かな。せっかくなら探偵をやってみたいだろ」
雅貴はわざとらしく何かを考え込んでいるふりをした。
眉間にしわをつくり、突然、教室の扉を指しながら叫ぶ。
「これは密室トリックだ!」
指先につられて優里がふりむくと、肩から長い髪がさらさらとおちる。鍵のかかった扉を見て、口を尖らせた。
「密室って、あれはさっき自分で閉めてたじゃない。ずるい」
「これは例えだよ、例え。俺がビシッと推理したらかっこいいだろ」
なんてな、と雅貴は白い歯を見せて笑った。
まあね、と優里もつられて楽しげな声をあげる。
「あとは……そうだな、ファンタジーもいいかもな。魔法とかさ」
「男の子が好きそう」
息を多め吐きながら優里は困ったように雅貴へ笑いかけた。
「幾つになっても男は憧れるもんなの」
雅貴は優里と向き合うように上半身をひねって、腕を机にかけた。
二人の距離がさらに縮まった。
「魔法か……私、もう魔法にかかってるよ」
指で宙に向かってハートを描く優里は、雅貴を見上げて悪戯っぽく笑った。
「なんだよ、ずいぶん恥ずかしいことするんだな」
「例えです、例え」
こいつ、と雅貴が額を指で小突くと優里は痛いと大げさにさすった。
「まぁ、俺は事件解決とかしてみたいわけ。そういう吉澤はどうなんだ?」
「シェイクスピア」
へぇ、と雅貴は感心したようにさらに身を乗り出した。
「ロミオとジュリエットがいい」
「それ、悲劇だろ。どうせなら喜劇じゃないか?」
なんでまた、と雅貴は優里へ首をかしげた。
「悲劇だからって悲しい気持ちだは限らない。私はただ、恋する二人を見守りたいかな」
「見守りたい、ね。俺なら死なせないようにするとか言うけどさ、吉澤らしいな」
「いつでも恋人のことを思ってるの。きっと素敵よ」
優里は窓枠に手をおいて、外を眺めた。カップルらしい2人がゆっくりと歩いて帰っている。
「恋人を思って死ぬんだもん。二人は幸せよ」
「そうか……そういうのもありなのかもな」
暗い教室のなか、外灯の明かりがほんのりと室内を照らす。
近づいて、お互いの表情が分かる程度。光がやさしく二人を包む。
カップルが消えるまで見送ると、雅貴は口を開いた。
「しかしシェイクスピアとは。俺の影響かな、お嬢さん」
「うるさいっ」
優里は雅貴が手にしている本を取り上げるとパラパラとめくりながらつぶやいた。
「Hamlet?」
「あるべきか、あらざるべきか。それが問題だ」
「なにそれ、わかんないよ。私、まだ読んでない」
「俺はもう何回読んだことか。葛藤が若者らしくて好きなんだよ」
優里は本を戻して机にうつ伏せになった。
「若者らしい、ね……私は早く大人になりたい」
微かなためいきをついて、身体を小さくしたまま動かなくなった。
ハムレットを再び手にした雅貴は、目を通したところまでたどって栞を挟む。
「だいぶ日が落ちたな。そろそろ下校時刻か」
うつぶせにのまま優里はうなづく。
雅貴は静かになった優里の頭に手をのせて、何度もやさしくなでた。
まるで泣いている子供をあやすように。
絹糸のように繊細な黒髪が指の間からふわりと流れおちる。
「帰らなきゃ」
伏せながら発した声はわずかにこもっている。刻々と迫る時間に耐えるような、苦しそうな声。
「ねぇ、先生。もう少し、居てもいい?」
そう言って、差し出された震える小さな白い手に、雅貴はそっと指を絡ませた。