手のひらを、空にかざせば。
電車に乗る。ミュージックプレーヤーでイヤホンを耳につけて音楽を聞く輩、スマホを片手に操作する輩。お年寄りに席を譲らない輩、さらには、ドアがしまる直前で滑りこんで来る輩。
…と、かっこつける自分も携帯でチャットしているわけだから、偉そうな事は言えない。
小さい頃、母にぶたれながら礼儀を学んだ俺が、電車の風景を“普通”と認識できるようになったのは、ごく最近の事である。
別に金持ちでもない俺の母が俺に礼儀や挨拶を徹底的に叩き込んだのは、父方の祖母に原因がある。
情報管理関係の会社に勤めていた父は、退職して小さなIT企業の社長をしていたが、何者かによってデータが奪われ、あろうことかこれからという時に倒産。そして、当の本人まさかの逃亡。これから返していくはずだった借金を俺の母に託し姿を消した。
父方の祖父母はそれなりに財産を蓄えていたため、母が払えきれなかった実の息子の借金を肩代わり。
母と俺は借金を少しでも払うために車から家まで全て売ったためほとんど無一文。母方の祖父母はすでに他界していたため、土下座まで、俺たちは父方の祖父母の家に転がりこんだ、そんな状態であった。
昔はなぜあの時母はいくらお金がないとはいっても、ただでさえ仲の悪かった父方の祖父母にあんなお願いしたのだろう、と幼いながらに首を傾げていた。だが、今では理解できる。おそらく、母は俺を守りたかったのだ。
祖父母の家は、母屋と離れがある全室和室の家――ではなくて、東京都S区にある、洋室3室+和室2室+リビング+バルコニー+お風呂+(トイレ+洗面所)×2のごく普通の一軒家。
祖父は俺にも母にもすごく優しく接してくれる人だったが、祖母は強烈だった。母が食事中髪を結んでいないだけでぴしり、まだ幼稚園児だった俺がお風呂で騒いだだけでぴしり…。
洋室もあるのにいつでも着物を着て、料理を作る時は割烹着を身につけていた。常に良い姿勢を正し口元をきゅっと結んだ祖母は、…本当に、正しかった。
そんな祖母に怒られないようにすべく、母は事ある度に俺の頬を叩いた。自分の事は僕と呼びなさい、何度言ったら分かるの!ぺしっ。今日の箸の持ち方違ったでしょ!ぺしっ。おばあちゃんに怒られたからって泣かないで!ぺしっ。説教の時、俺の目がうるんでくると母の目にもみるみるうちに涙がたまる。
「ごめん、本当にごめん、こんなに辛い思いさせて…。全部父ちゃんが悪くて、母ちゃんたちは何にもしてないのにねぇ。ぶっちゃってごめん。」そう言って俺を抱き締めていた。涙をぬぐって俺から手を放すと、
「明日からも頑張ろう、せーのっ」俺は、無理に笑顔を作ろうとする母を見るに耐えなくて、目線を少しそらしながら、拳を空に突き出して母の声に自分の声を重ねた。
「エイエイオー!」そんな母を見るのが辛くはあったが、母が嫌いではなかった。むしろ好きだった。
だから、母が憎んでいた父は、俺にとっても憎ましかったし、なるべく母の言うように行いを守って、母を泣かせたくない、ずーっとそばにいたい、と思った。
なのに。それなのに。…。現実だと言うことから逃れられなくなってしまいそうだから今は言わない…。
何はともあれ。俺はあれから約10年の時を経て。だんだんと大人になり。携帯やらミュージックプレーヤーやら人相応に持つようになり、昔、遠い遠い過去は、心の中でも本当に遠いところに行ってしまった。記憶というものはずるい。確信していた物事でさえ、時間という魔法によって、ぼやけていく。魔法にかけられた記憶はなぜか断片的になら思い出すことが可能で。それが逆にもどかしかったりする。
もし、過去に戻れるような魔法があるとしたら、俺は迷わず約10年前に行くだろう。
壊れてしまった方位磁石を直しに。たとえ直らなくても、それはそれでいい。その時は、自分の足で、歩いていくから。
作品名:手のひらを、空にかざせば。 作家名:清水 蘭