プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第五章】
【第五章 北ウォールズ(後編)】
第三十七話 ピオニーとの再会
新暦二〇三年 秋
オピアムに帰ってきてから一週間もしないうちに、気温はぐっと下がり、高原にいた頃のように過ごしやすくなってきました。
私は二都山道の基点からさほど遠くない、郊外の安宿を拠点として、病に苦しんでいる人がいないか、街のあちこちで見張っていました。
残念なことに、癒師の黒衣を目にした街の人々の反応は、王都ジンセンとそう変わりない冷たいものでした。かつては魔法の国と恐れられていたウォールズも、最後の大戦に敗れてから二百年経った今では、半島を統一したカスターランドの科学至上主義や合理主義に飲みこまれつつありました。
癒術は体に負担をかけない優れた治療手段であることは、エルダー諸島の人々なら誰でも知っていることです。しかし、それを島の外に持ち出せないようでは、単なる自己満足ではないかと、私は思うようになりました。
どうにかして癒術を世に広めたい。でも、才能を持った人は原則エルダー人女性だけです。エルダー人は島にこもって大陸の激動を傍観しているだけだと、旅の途中で批判を受けたこともあります。私は上手いことを言って、島の癒師たちを動かすべきなのでしょうか。それとも、他にもっといい方法があるのでしょうか?
そんなことを考えながら、街角の広場で人の行き来を眺めていると、見覚えのある顔が目に止まりました。
以前、三つ編みにしていた長い金髪は、少年のように短くなっていましたが、はさみで切ったようなショートスカートをはいて、きれいな脚を披露する癖は変わっていません。
「ピオニー先輩!」
私は駆けていって声をかけました。
「……」
彼女はうつろな目で私を見るだけです。
「先輩?」
「ええと……誰だっけ?」
「え……」
まさか、人違い? そんなはずはありません。黒衣は着ていなくても、左の耳たぶに収まった月蛍石のピアスは、癒術学校を卒業したという、何よりの証拠です。
「なんだ、プラムか」
「二年半ぶりだというのに、なんだ、はないじゃないですか」
「……」
ピオニー先輩はそれには応えず、くすんだ瞳を遠くの方へ向けていました。
異変に気づいた私は、先輩の手をとり、路地裏へ引っ張っていきました。あのわがまま放題だった先輩が、人形のような従順ぶりです。
私は人目がないのをたしかめると、両手を差し出し、患者の症状を透視していきました。
停滞しきってどこにも行けないという、悪い夢を見ているような、粘ついた心の風景が広がっています。
危険を感じた私はすぐに瞑想から目覚めました。
ピオニー先輩は、麻薬に溺れていたのです。
大都市の裏社会で流通している『凪(カーム)』という、鎮静作用の強い違法薬です。
薬をなるべく使わずに病を癒す仕事をしている人が、薬漬けで病んでいるなんて……。
私はショックのあまり、カッとなって怒鳴りました。
「なにやってるんですかっ!」
「……」
先輩はうるさそうな顔一つしません。
モノクロームの世界にいる彼女に、今はどんな過激な色をぶちまけても無駄でした。
私は我に返って考え直しました。薬が抜けるまでは大人の理屈など通りません。質問を変えるしかなさそうです。
「これからどこへ行くんですか?」
私は小学生を相手にするつもりで、優しげに言いました。
「だるい。うちに帰る」
「私もお邪魔していいですか?」
「夜になっても帰らない?」
「えっ?」
意外な答えに、私は戸惑いました。
「一人にされるくらいなら、一人のままがいい」
なるほど……事情が少しわかりました。ピオニー先輩らしい言い回しです。
「私は帰りませんよ。あなたが元気を取り戻すまで」
「嘘ばっかり」
「私が先輩に嘘をついたことありますか?」
ピオニー先輩は眉根を寄せると、私に向かってどんどん顔を近づけてきました。
「なんだ、プラムか」
「そ、そうですよ。先輩の良きパシリのプラムです」
「よかった……」
先輩は私の腕に腕をからめると、ぎゅっと抱えてきました。
「私はずっとピオニー先輩の味方です。さぁ、お家へ帰りましょう」
私は先輩の新しい彼氏になったような気分で、家まで送っていきました。
第三十八話 離脱症状
市の中心を大きな円で占める城址公園——旧オピアム城のことです——、その北に広がる古い住宅地の中に、ピオニー先輩が暮らす石造りのアパートがありました。部屋は四階建ての三階です。
先輩はこの部屋に、一年以上前から住んでいました。東の都ジンセンで留置場を脱走した私を見送ってから、そう経たないうちに引っ越したようです。当時つき合っていた男とは別れたとのことでした。
別れた理由や、生活費はどうしているのか、薬漬けになった経緯など、いろいろ知りたかったのですが、少しでも難しい質問をすると、先輩は悲しげな顔をするだけで答えが返ってきません。
私は個人的な追求をやめ、治療に専念することにしました。
まずは観察からです。
ピオニー先輩は、昼間はとても気怠そうにしていました。朝にスニフ——薬を鼻から吸入することです——した麻薬が効いているせいです。夜になると薬が抜けてきてイライラしますが、節約観念が強いのか、それとも無意識の良心からか、薬を追加することなくベッドに入るのが常でした。
私は先輩が眠っている間、ランプ片手に部屋に忍びこみ、麻薬をしまってある宝石箱を開けて中身をたしかめました。
紙袋を開き、粉のように細かい白の結晶をすくって口に含むと、独特の苦み。カームに間違いないと確信しました。
カームは古くから大陸の悪党や心の病んだ人を苦しめてきた、注意すべき麻薬。癒術学校の実習においては、この味がわからないと、単位をまるごと一つ落としてしまいます。
ひとまず薬は、元通りにしまっておきました。
翌日、私は街へ出かけ、グリスコという根菜由来の白い精製糖——通称グリ糖——を一袋買ってきました。
そして夜、先輩が寝静まったのを機に、私は麻薬の袋を開けてグリ糖を少し入れ、薬さじでまんべんなくかき混ぜ、また元に戻しました。
次の日、また次の日と、私はグリ糖の量を少しずつ増やしていきました。
グリ糖は無臭で、しかもカームと手触りがそっくりです。プロ中のプロでもない限り、なめてみるまでは区別がつきません。
ピオニー先輩は考える力が衰えているため、しまってある薬のカサが減らないことには気づきませんでした。
麻薬の濃度をこっそり薄める作業を、二週間ほど続けたある日の午後。
日々イライラを募らせてきたピオニー先輩は、ついに爆発しました。
「おかしいわ! 効かなくなってきた! 『慣れ』はないって……あのクソ学長!」
先輩は寝室で、物を投げて暴れています。
私は鍋のフタを盾にして、キッチンの隅に隠れていました。
カームに限っては、体が慣れてしまって効かなくなることはありません。それだけに恐ろしい麻薬なのです。
薬の量を知らない間に減らされたピオニー先輩は、離脱症状に苦しんでいました。
「恐い、寂しい……誰か! 誰かいないの? プラムはどこ?」
第三十七話 ピオニーとの再会
新暦二〇三年 秋
オピアムに帰ってきてから一週間もしないうちに、気温はぐっと下がり、高原にいた頃のように過ごしやすくなってきました。
私は二都山道の基点からさほど遠くない、郊外の安宿を拠点として、病に苦しんでいる人がいないか、街のあちこちで見張っていました。
残念なことに、癒師の黒衣を目にした街の人々の反応は、王都ジンセンとそう変わりない冷たいものでした。かつては魔法の国と恐れられていたウォールズも、最後の大戦に敗れてから二百年経った今では、半島を統一したカスターランドの科学至上主義や合理主義に飲みこまれつつありました。
癒術は体に負担をかけない優れた治療手段であることは、エルダー諸島の人々なら誰でも知っていることです。しかし、それを島の外に持ち出せないようでは、単なる自己満足ではないかと、私は思うようになりました。
どうにかして癒術を世に広めたい。でも、才能を持った人は原則エルダー人女性だけです。エルダー人は島にこもって大陸の激動を傍観しているだけだと、旅の途中で批判を受けたこともあります。私は上手いことを言って、島の癒師たちを動かすべきなのでしょうか。それとも、他にもっといい方法があるのでしょうか?
そんなことを考えながら、街角の広場で人の行き来を眺めていると、見覚えのある顔が目に止まりました。
以前、三つ編みにしていた長い金髪は、少年のように短くなっていましたが、はさみで切ったようなショートスカートをはいて、きれいな脚を披露する癖は変わっていません。
「ピオニー先輩!」
私は駆けていって声をかけました。
「……」
彼女はうつろな目で私を見るだけです。
「先輩?」
「ええと……誰だっけ?」
「え……」
まさか、人違い? そんなはずはありません。黒衣は着ていなくても、左の耳たぶに収まった月蛍石のピアスは、癒術学校を卒業したという、何よりの証拠です。
「なんだ、プラムか」
「二年半ぶりだというのに、なんだ、はないじゃないですか」
「……」
ピオニー先輩はそれには応えず、くすんだ瞳を遠くの方へ向けていました。
異変に気づいた私は、先輩の手をとり、路地裏へ引っ張っていきました。あのわがまま放題だった先輩が、人形のような従順ぶりです。
私は人目がないのをたしかめると、両手を差し出し、患者の症状を透視していきました。
停滞しきってどこにも行けないという、悪い夢を見ているような、粘ついた心の風景が広がっています。
危険を感じた私はすぐに瞑想から目覚めました。
ピオニー先輩は、麻薬に溺れていたのです。
大都市の裏社会で流通している『凪(カーム)』という、鎮静作用の強い違法薬です。
薬をなるべく使わずに病を癒す仕事をしている人が、薬漬けで病んでいるなんて……。
私はショックのあまり、カッとなって怒鳴りました。
「なにやってるんですかっ!」
「……」
先輩はうるさそうな顔一つしません。
モノクロームの世界にいる彼女に、今はどんな過激な色をぶちまけても無駄でした。
私は我に返って考え直しました。薬が抜けるまでは大人の理屈など通りません。質問を変えるしかなさそうです。
「これからどこへ行くんですか?」
私は小学生を相手にするつもりで、優しげに言いました。
「だるい。うちに帰る」
「私もお邪魔していいですか?」
「夜になっても帰らない?」
「えっ?」
意外な答えに、私は戸惑いました。
「一人にされるくらいなら、一人のままがいい」
なるほど……事情が少しわかりました。ピオニー先輩らしい言い回しです。
「私は帰りませんよ。あなたが元気を取り戻すまで」
「嘘ばっかり」
「私が先輩に嘘をついたことありますか?」
ピオニー先輩は眉根を寄せると、私に向かってどんどん顔を近づけてきました。
「なんだ、プラムか」
「そ、そうですよ。先輩の良きパシリのプラムです」
「よかった……」
先輩は私の腕に腕をからめると、ぎゅっと抱えてきました。
「私はずっとピオニー先輩の味方です。さぁ、お家へ帰りましょう」
私は先輩の新しい彼氏になったような気分で、家まで送っていきました。
第三十八話 離脱症状
市の中心を大きな円で占める城址公園——旧オピアム城のことです——、その北に広がる古い住宅地の中に、ピオニー先輩が暮らす石造りのアパートがありました。部屋は四階建ての三階です。
先輩はこの部屋に、一年以上前から住んでいました。東の都ジンセンで留置場を脱走した私を見送ってから、そう経たないうちに引っ越したようです。当時つき合っていた男とは別れたとのことでした。
別れた理由や、生活費はどうしているのか、薬漬けになった経緯など、いろいろ知りたかったのですが、少しでも難しい質問をすると、先輩は悲しげな顔をするだけで答えが返ってきません。
私は個人的な追求をやめ、治療に専念することにしました。
まずは観察からです。
ピオニー先輩は、昼間はとても気怠そうにしていました。朝にスニフ——薬を鼻から吸入することです——した麻薬が効いているせいです。夜になると薬が抜けてきてイライラしますが、節約観念が強いのか、それとも無意識の良心からか、薬を追加することなくベッドに入るのが常でした。
私は先輩が眠っている間、ランプ片手に部屋に忍びこみ、麻薬をしまってある宝石箱を開けて中身をたしかめました。
紙袋を開き、粉のように細かい白の結晶をすくって口に含むと、独特の苦み。カームに間違いないと確信しました。
カームは古くから大陸の悪党や心の病んだ人を苦しめてきた、注意すべき麻薬。癒術学校の実習においては、この味がわからないと、単位をまるごと一つ落としてしまいます。
ひとまず薬は、元通りにしまっておきました。
翌日、私は街へ出かけ、グリスコという根菜由来の白い精製糖——通称グリ糖——を一袋買ってきました。
そして夜、先輩が寝静まったのを機に、私は麻薬の袋を開けてグリ糖を少し入れ、薬さじでまんべんなくかき混ぜ、また元に戻しました。
次の日、また次の日と、私はグリ糖の量を少しずつ増やしていきました。
グリ糖は無臭で、しかもカームと手触りがそっくりです。プロ中のプロでもない限り、なめてみるまでは区別がつきません。
ピオニー先輩は考える力が衰えているため、しまってある薬のカサが減らないことには気づきませんでした。
麻薬の濃度をこっそり薄める作業を、二週間ほど続けたある日の午後。
日々イライラを募らせてきたピオニー先輩は、ついに爆発しました。
「おかしいわ! 効かなくなってきた! 『慣れ』はないって……あのクソ学長!」
先輩は寝室で、物を投げて暴れています。
私は鍋のフタを盾にして、キッチンの隅に隠れていました。
カームに限っては、体が慣れてしまって効かなくなることはありません。それだけに恐ろしい麻薬なのです。
薬の量を知らない間に減らされたピオニー先輩は、離脱症状に苦しんでいました。
「恐い、寂しい……誰か! 誰かいないの? プラムはどこ?」
作品名:プラムズ・フィールド 〜黒衣の癒師〜 【第五章】 作家名:あずまや