蝶
目撃
刻刻と時間が過ぎていき、時計は夜の11時を回ろうとしていた。
しんと静まりかえった住宅街に車は殆ど通らず、人通りもなかった。時折りどこかの家で飼っている犬の遠吠えが聞こえた。
透が何度目かのあくびをした時だった。
前方から、若い女が歩いてくるのが見えた。一人だった。
帽子に薄い色のサングラスをかけているが、背格好からして西嶋はるかに間違いない。
透は、車の窓越しにシャッターを切った。
はるからしき女は、写真に撮られていることに気付く様子も無く、マンションに入って行った。
男と2ショットの写真が欲しいな。
もう少し張り込んでいれば、男との写真が撮れるかも知れないと透は思った。
時計を見ると11時15分だった。
助手席にカメラを置くと、運転席のシートを少し倒した。
シートを倒すと、丁度マンションのベランダが見える。
305号室。それがFAXに書かれていた、はるかの相手の男の部屋番号だ。
道路に面した手前の部屋から、301、302と数えていくと、305号室は一番奥の部屋と推測できる。
302号、303号と305号に電気が点いている。カメラに望遠レンズを装着しピントを合わせる。ベランダは見えるが、部屋の中までは見ることができなかった。
透は、買っておいた缶コーヒーのプルトップを開けて飲んだ。すっかりぬるくなっていた。
男との2ショットを撮るのは難しそうだな。まあいい。はるかが、マンションから朝帰りするところを撮れればいい。それだけでも収穫だ。
しばらくすると、ベランダにはるかの姿が見えた。
透はカメラを構え、望遠レンズでベランダを覗いた。レンズが、はっきりとはるかの姿を捉える。
すると、男が掃き出し窓から、ベランダに出てくるのが見えた。
はるかは、ベランダの手すりを背にして立っていた。何か言っている。叫んでいるようにも見えた。男の姿は、丁度ベランダの柱の影で見えない。
レンズ越しに見る、はるかの表情が、怯えているように見えた。透は連続でシャッターを切った。
柱の影から、はるかに向かって、男の両手が伸びた。その手は、はるかの首に絡みつき、首を絞めているようだった。
いったい、何をやってるんだ?
シャッターを切り続けたが、次第に透は焦りを覚えた。
はるかが苦しそうに顔を歪めるのがわかった。
まずい。
咄嗟にカメラを助手席に置くと、車から飛び出した。
ガードレールを飛び越し、マンションの入口に向かった。
古いタイプのマンションで、玄関は幸いなことにオートロックではなかった。すんなりと、自動ドアを通り抜ける。
エレベーターを待つのがもどかしく、奥に非常階段を見つけると、一気に駆け上った。廊下を走り、305号室にたどりつく。
インターフォンを鳴らしたが、返事がない。
ドアを勢いよくたたいた。廊下にドンドンという音が鳴り響いたが、構うことはなかった。
ドアが開き、中から西嶋はるかが顔をのぞかせた。
「どなたですか? 」蚊の鳴くような声だ。顔は血の気が引いたように真っ白だった。
はるかが無事であった事に、透は安堵した。
「今、あなたがベランダで男に襲われているのを見たんですよ」
低い冷静な声で透は言った。
はるかは。慌てて当たりを見回すと、
「騒がないでください。近所迷惑ですから」と言った。
いかにも迷惑だと言わんばかりに眉をひそめている。
騒ぐつもりなど毛頭無い。男に首を絞められたように見えたから、慌てて来たのだ。
透はバツが悪くなり、それ以上は何も言わず、さっさと立ち去ろうと後ろを向いた。
その時だった。はるかが透の腕を掴んで言った。
「中に入ってください」
「え? 」
「中に入って」
はるかに促され、仕方なく透は玄関に入った。
部屋にはさっきの男がいるはずだった。自分に何の用があるというのだ。
透が玄関に入ると、背後で、はるかが鍵をかけた。
「わたし、あなたを知っています。写真誌のカメラマンの方ですよね」
透は答えなかった。はるかが透の顔を知っていたとしても不思議では無い。芸能記者やカメラマンは、芸能人とは持ちつ持たれつだ。
はるかの事務所も、透がどこの雑誌社のカメラマンであるかは調査済なのだろう。
売れっ子タレントを抱える事務所は、いざと言う時は、透に大枚をはたき、スクープ写真をもみ消すこともある。
もしくはその逆で、売名の為にスキャンダルをねつ造することも、日常茶飯事だ。
部屋の中は玄関からリビングらしき部屋まで、廊下がまっすぐに続いている。
はるかは、サンダルを脱ぐと、透にも靴を脱ぐように促した。
部屋には男がいるはずだった。透がカメラマンであることを知っているならば、恐らくスクープ写真を出させない為の交渉だろう。
もしや、その筋の男とか? そうなると厄介だ。写真のメモリーカードは黙って渡したほうがいいだろう。
透は身構えながら、はるかの後に続いた。