五階からのエール
昔ながらの都立高には、エレベータもない。毎日、ゼーゼー息を切らして階段を登ったものだ。
その頃、私は学校に友達の一人もいなかった。
まぐれで入った受験高は、誰もかれもが成績の鬼。教師も生徒も、テストの点数だけで人の価値をはかる。
落ちこぼれの私は卑屈になり、誰を信じることもできずに孤立していた。
期末試験一週間前のことだ。私は生物のノートを失くしてしまった。
一、二学期とも赤点のせいで、三学期末の試験は進級がかかっていた。試験勉強に手をつけていなかったので、相当あせった。
こういうとき、親しい友人がいないのは困る。勇気を振りしぼり、クラスメイトたちにノートを貸してほしいと頼んだ。
――一日でコピーして返すから。せめて、授業中に配られたプリント資料だけでも見せてくれない?
誰もいい顔するわけがなかった。
ノートは秘密兵器だ。私だけの苦労の成果。みんなが聞き漏らしたかも知れない、先生のあのキーワードが、きちんとメモしてある。ライバルには見せたくない。
「字が汚いから、恥ずかしくて見せられない」
女の子たちがよく使う、体のいい(?)お断り文句だ。
中には交換条件を出す人もいたが、私が落ちこぼれなことを思い出すと、利用価値はないと踏んで露骨に引っ込めた。
私は諦めた。かばんを持ち上げると、みんなが安心した。
長い階段がせつない。
迫る試験のことよりも、断られたことの方がショックで。
十六歳は世界が狭い。拒否したクラスメイトにも、拒否された自分にも、絶望した。
全世界の人間に、裏切られたように思い込んだ。
下駄箱のフタを開けたとき、名前を呼ばれた。
でも、たぶん、風。ここに、私を呼ぶ人なんているもんか。
ところが、誰か駆けて来る。
小泉さんだ。クラスメイト。数学が得意。遠い席。
ぽっちゃり美人の頬を赤く染め、すり減ったゴム底の上履き、バタバタとやって来る。
私のところへ来たときも、切らした息が苦しそう。
「○○(私の本名)さんが、生物のノートを失くして困っているのを聞いたから、ロッカーまで取りに行っていたの。でも、その間に帰っちゃったって…」
そう言うと、彼女は私にノートを手渡してくれたのだ。
私は、身動きできなかった。
手にあるノートが、信じられなくて。
門外不出が常識。望むのは非常識。貸さなくて当たり前。貸すなんて映画の世界すら飛び越えている。
しかも教室は五階だ。遠い遠い下界。一日中、生徒はめったに下りてこない。同じ階段を登って帰る労力が厭わしいから。頭でっかちな空の住人。
そう。下りてきちゃいけない。天女は、空の故郷へ帰るのに、とても苦労した。勉強する体力、残しておかなきゃ。
でも、小泉さんはやって来た。
ノートが秘密兵器なこと、忘れた。登る労力、考えなかった。
やさしい気持ちのまままっしぐら、五階分の踊り場を廻ってやって来た。
私なら、字が下手でもノートくらい貸すだろう。
しかし、既に帰ってしまった人には貸さない。五階分の階段下りてまで追わない。明日渡せばいいと思う。そして、次の日忘れている。
まごつきながらも、私はなんとか「ありがとう」を言った。
ところが、五階分の感謝は言い逃してしまった。
呆然としたままの私を不信がることもなく、小泉さんは、真新しいゼーゼー息そのままに、一段一段、空の国へ帰って行った。
十六歳の私の狭い世界が、人間不信の幕を切り落とされて、パアッと明るくなった。
新鮮な風。小泉さんが運んで来た。
世界にエールを贈られた気がした。
真っ赤なほっぺた、やかましい靴音、ゼーゼー息、手渡されたノート――全てが私にとって「エール」だった。
五階分のやさしさに励まされ、世界中の人間は、もはや敵ではなくなっていた。
大人になった今、あの頃よりずいぶん世界は広がった。
その分、人に対してせつなく思うことも多い。
しかし、そのたびに思い出す。
五階から下りて来た少女。
やさしい心。
私は励まされる。
ノートの一件から、私と小泉さんは一緒にお弁当を食べる仲良しになった。
クラスが離れても交友は続いた。卒業してからは、互いに連絡が途絶えてしまったが…。
でも、私は、小泉さんを忘れないのだ。
心の中に、いつも小さな小泉さんがいる。
人の心に私がくじけそうになると、五階から駆け下りて来る。
真っ赤なほっぺた、やかましい靴音、ゼーゼー息――。
今でも、そしてこれからも、私にエールを贈り続けてくれている。
<おわり>