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 自宅に帰る時間は、あまり決まっていない。用事が終わり、別に急ぐこともなく帰路を歩く。家に着くのは、決まって夜頃だ。そのせいか、未だに朝を知らない。
 マンションと呼ばれる大きめの建物の四階に、私の部屋がある。そこまでは階段を上って行く。この程度なら疲れはしないが、面倒である。しかし、この程度でエレベータを使う方がよっぽど面倒なので、エレベータは使わない。
 玄関には鍵を掛けない。掛ける必要がないからだ。誰も侵入する者がいないようなら、鍵を掛ける必要はないだろう。一応鍵は鞄に入れて持ち歩いているが、出さずにそのまま扉に手を掛ける。

 扉を開け、部屋に入る。部屋は真っ暗だ。それもそうだ、私以外に他の人が住んでいる訳じゃない。代わりに、私より大きな白い影が迎え入れてくる。暗くても、その影だけは白くはっきりと見える。部屋の電気を付けても勿論見える。体の線がぐにゃぐにゃと曲がっている、顔も色もない白い影だ。迎え入れてくれるその影に、私は体を預ける。影の、私より大きな手のようなものが、私を包み込む。私は影と暫し抱擁する。ちく、たく、と、影の心臓の音が聞こえてくる。
 短いような抱擁を終えると、最初に私は風呂に入る。白い影はそれまで、部屋をうろうろ駆け回る。子供のような、しかし私より大きな体を持って駆け回る影の足音は、全く聞こえない。耳を澄ませると、ふう、と空気のような音が聞こえてくるが、これが影の足音なのかは分からない。
 風呂に入っている間も影は駆け回っているのか、見えていないので分からないが、風呂から出ても影は駆け回っていたので、風呂に入っている間も駆け回っていたのかもしれない。寝巻に着替えて、風呂から出てくるのを確認すると、影は足音を立てずに私の前まで駆け寄る。そして私は影と、もう一度抱擁する。今度は、ちくたくちくたく、と心臓の音が早くなっていた。
 風呂から上がりさっぱりとしたら、夕食の準備をする。夕食の準備をしている間、白い影が私の腕や肩や髪の毛や胸やお腹や腰や腿を触ってくる。うっとおしくて敵わないのだが、怒ってしまうと白い影は壁にすうっと消えていってしまう。消えてしまうととても悲しくなるので、怒らないようにしている。
 夕食と言っても、見た目は螺子のようなものだ。とても栄養のあるものだと、本に書いてあった。味はしないし、とても固い。作っている経過の意識がはっきりしていないのか、自分が作った筈なのに作っている状況が全く思い出せない。白い影に腕や肩や髪の毛や胸やお腹や腰や腿を触られるのは覚えているのに、それは思い出せない。不思議なものだ。
 テレビを見る。テレビは部屋に帰る前から付いている。消し忘れた訳じゃない。消えないのだ。暗い空に、雨と雷が延々と降り続ける音のない映像だけが流れている。面白くはないが、何故かじっと見てしまう。
 窓から外を見る。暗くて何も見えない。明るい時は、雲や建物くらいなら見えるのだが、暗い時は明かりも何もないので、何も見えない。今日は、ベランダに鳥が止まっていた。ちいさな鳥だ。窓を開けて触ろうとすると、それが人形であることが分かった。ちょんと押すと、鳥の人形はひゅうっと落ちていった。
 寝室へ向かう。寝室へ向かう時も、白い影は私の後ろを歩いている。ちく、たく、と、聞こえてくる規則正しい心臓の音が心地よい。本当は、まだ眠りたくなかった。しかし、もうすぐで睡眠時間なので仕方ない。
 寝室に入ると、ラジオが聞こえてくる。これも消し忘れた訳じゃない。消えないのだ。流れてくる音は、洞窟を通る風の音みたいなものだ。実際洞窟を通る風の音を聞いた訳じゃないが、雰囲気はそんな感じだ。それがまるで部屋の音のように聞こえてくる。耳を澄ましていると、背中に冷たいものがまとわりつくような感覚を覚える。
 寝る前に、日記を書く。寝る前に日記を書かなくてはいけない。日記と言っても、明日の自分に伝える『手紙』みたいなものである。今日起きたことを書くだけではなく、明日の自分に伝えたいことを書く。ペンを取り、書き始める。書いている間は、白い影が私の後ろに立っている。

「一人、貴方の昨日は花が見えませんでした。貴方の今日は見られますか?」
 いつも通っている崖に、今日は花が見えなかった。巣立ってしまったのかもしれない。もしかしたらその時だけどこかに出掛けていただけかもしれないので、日記で明日の自分にそう伝える。

「二人、貴方の昨日は水平線の反対側に会いました。色々なことを知りました。貴方の今日は、朝を知っていますか?」
 今日は、海を見に行った。見に行くのは珍しくもなんともないが、海の向こうの水平線から、丸いものが現れた。太陽とは違う、暗いものだ。目と口が付いている。それは私の元に段々近付いてきて、それがとてつもなく巨大なものだと分かってくる。目と口もその巨大な体に合わせて大きかった。その丸いものに、朝と言うものを教えてもらった。明日の自分は、朝を知ることが出来るだろうか。

「三人、貴方の今日は、貴方の昨日より後悔しない日になりますか?」
 これは、絶対聞かなくてはならないことだ。自分も、昨日の自分に聞かれた。そして、結局答えは出ないままだった。でもこれは、これからも書かなくてはならない。書くのを止めてはいけない。そう決められた訳じゃないが、そう自分が決めたのだ。

 結局今日も昨日も違いが見えない。明日と今日もそんなに違いはないのかもしれない。
 そういえば今日は、白い影がいつもより忙しなく動いているみたいだった。振り返ると、いつの間にか天井を走っていた。すばしっこくて、目で追うと疲れる。
 日記に書くのは、三つだけにしている。それ以上書いても駄目だし、それ以下でも駄目だ。そう決められた訳じゃないが、そう自分が決めたのだ。これくらいなら、バランスが良い。

 ベッドに入る前に、寝る前に、薬を飲む。『EEEEE』とラベルの貼られた瓶に入っている薬だ。飲み込むと、眠気は襲ってこないのだが、ふらふらとベッドに吸い寄せられるように足が動く。もぞもぞと掛け毛布との隙間に体を入れ込んで、ベッドに入る。寝る時に天井は見ない。横を向く。眠る姿勢に入ると、手足の指先から段々冷たくなってくる。冷たくなったところは、感覚がなくなっていく。動かせなくもなる。指先、腕、腿、そしてゆっくりと身体が冷たくなっていく。やがてラジオの音も聞こえなくなる。何も聞こえなくなる。声を出そうとするが、上手く出せない。やがて「い」しか発音出来なくなる。
 最後に、見えるものが色を失っていく。白と黒だけになっていく。元々暗い部屋の中だったので、視界の殆どが黒になる。とても怖くなって、体を動かそうとするが、動かない。悲鳴を上げようとしても、「い」しか言えない。涙も出せない。
 怖くて、胸が潰れそうになる時、白い影が私を手のようなもので優しく包み込んでくる。その手のようなものが暖かいのか分からない。体がもう冷たいからだ。でも、とても落ち着いた。白い影は、私の体をそっと抱き締める。目の前は白だけになった。今夜は、気持ち良く眠れそうだ。

 貴方の今日は、貴方の昨日より後悔しない日になりますか?
作品名:0-1 作家名:白川莉子