マリオとマリーと殺人計画
プロローグ
もうあの女を殺すしかない、妻を。結婚して15年、愛らしきものがある時代もあった気がする。しかし今となってはそれは遠い幻、もはや憎しみや嫌悪、侮蔑、そういった気持ちしかあの女には抱けない。いつからだろう、次第に口を聞かなくなり、寝室が別になった。それだけではない、ついには洗濯物までが別になった。その時は、あの女が俺のことを汚いと思っていることが明らかになり、表では無関心を装ったが、内心では、はらわたが煮えた。今ではもう会話はほとんど無いし、食事も別々に取っている。かと思えば、あの女は頑なに離婚届けには判を押さなかった。内心では俺のことを汚く、出世もしない稼ぎの低い男と馬鹿にしているくせに、その俺の稼ぎにあの女はしがみついている。なんて下劣な人間だろうと思う。
もうこれ以上は限界だ。俺のことを内心で馬鹿にしている女。また、俺もあいつのことを心底嫌っている。それなのにこの腐りきった共同生活には離婚という終わりすら見えない。だったら、殺すしかないだろう、殺すしか。だがどうやって。自慢じゃないが俺は昔から頭を使うことが苦手だ。俺なんかが殺人をやらかせば、100%何かへまをして捕まるだろう。そもそも、大卒のインテリがやってさえ捕まるのが殺人だ、俺なんかに逃げ切れるはずがない。とは言え、あの女のために残りの人生を塀の向こう側で過ごすなんて耐えられない。何かいい方法はないものか。
そこまで考えて、ふと一人の男の顔が頭に浮かんだ。高校時代の親友、松井太郎の顔が。俺は友人を作るのが苦手だった。表面的な友達はわりと簡単に作れたが、腹を割って話せる友達となると、自分の43年の人生を通じて考えてみても、たった一人しか思い浮かばない。それが松井太郎だった。ただし、その唯一の親友とも、高校卒業以来会ってなかった。なぜならば、松井太郎は何もかもが優秀すぎたからだ。才気溢れ光り輝く彼の元に、なんのとりえもない俺なんかがくっついていることは、できなかった。だから俺は、高校を卒業してからは、自ら松井のもとをフェードアウトしたのだ。
松井太郎は、とにかく全てにおいて完璧だった。彼は偏差値の低い我が高校において、初の東大合格を成し遂げた。というか、国立大学に合格したのもその年では彼だけだった。普段俺と毎日つるんで遊んでいたのだから、勉強していたとも思えないのだが、やはり頭の出来が違うというやつだろう。運動をやらせればテニスで全国大会出場を成し遂げたし、絵を描かせれば大きな賞をとったりもした。
そしてそういった長所よりも更に目を引いたのがその容姿だ。今の若い子は格好のいい男に「イケメン」という言葉を使うが、松井の場合はイケメンというよりは「美青年」だった。目鼻立ちがくっきりしており、肌は透き通るような透明感があり、染み一つなかった。男の俺でさえ、彼を間近に見てどきりとさせられたことは一度や二度ではない。
そんな、俺なんかと違い、何もかもを持って生まれた松井だったが、なぜかとても気が合った。高校時代は毎日一緒にいて、バカなことばかりやっていたように思う。毎日が楽しく、輝いていたあの時代。
松井ならば、あの天才ならば、殺人の一つや二つ、あっさりと、完璧にこなしてしまうだろうな、と思った。高校時代の俺とアイツの関係であれば、おれが真剣に悩めば、彼は殺人にさえ手を貸してくれていたと思う。それ程の友情があった。では今はどうか。彼はまだ俺の親友でいてくれるだろうか。彼に相談すれば俺を助けてくれるだろうか。完璧な殺人計画をおれに示してくれるだろうか。手伝ってくれるだろうか。松井さえ味方になってくれれば、あっさりと完全犯罪を成し遂げられる、俺にはそんな確信があった。そして、なんとなく、彼は今でも俺の親友でいてくれている気がした。全てに秀で過ぎている彼も、高校時代は俺しか友人がいなかったからだ。俺は松井に連絡を取ってみようと思った。
1
午後8時20分、小林和仁は一人居酒屋の個室にいた。個室であれば、人に話を聞かれる心配はない。彼はそこで高校時代の親友である松井太郎と待ち合わせをしていた。高校の卒業アルバムに載っている連絡先を元に松井を探し、ついには連絡を取り付けたのだった。小林が久しぶりに会いたい、相談したいことがあると伝えると、20年以上会っていなかったにもかかわらず、松井はあっさりとOKしてくれた。松井も懐かしがり、是非に会いたいと言ってくれた。相談は少し深刻なんだと電話で伝えてみた。嫌がられることを覚悟したが、親友の悩みには是非相談に乗りたい、それが友達の務めだ、とまで言ってくれたのには感動した。彼の変わらぬ熱い友情に、不覚にも涙がこぼれた。約束の時間は8時だったが、すでに時刻は20分過ぎている。しかし全く気にならなかった。小林が呼びつけた側だったし、40代の社会人ともなれば仕事も忙しいだろう、不測の残業が発生した所で全く驚くには当たらない。彼が来る前に勝手に飲み食いを始めても失礼と考え、小林は水をちびりちびりと飲みながら松井を待った。そして更に10分程立つと、不意に個室の扉が開かれた。
扉の向こう側に立っていたのは、一人の少女だった。見た目の年の頃は小学生といった所か。そしてその少女は、美少女だった。それも、今までに小林が見たことの無いような、完璧な美しさ。サラサラの長い黒髪は、光輝くように美しい。意思の強い瞳、少し高めの澄ましたような鼻、紅を差してもいないのに赤くふっくらとした唇、一つ一つの完璧なパーツが、完璧なバランスで小さな顔の中に納まっている。肌は透き通るように白い。彼女は無言で、心の中を見透かすような目で小林の顔を見ている。一体誰なんだこの子は、そもそも、夜の居酒屋は小学生が来るような場所ではない。するとその美少女の後ろから、一人の男がひょっこりと顔を出した。そして言った。
「お待たせ。遅れてごめんね、カズちゃん」
高校時代のあだ名で小林を呼んだその男こそ、松井太郎らしかった。
2
小林は居酒屋の個室で、テーブルを挟み松井と向かいあった。松井の隣には先ほどの美少女がちょこんと腰を下ろしている。改めて、彼の顔を、体を、しげしげと眺めてみる。これが、この男が、あの美青年松井の20年後の姿なのか、信じられなかった。
松井太郎らしきその男は、すっかり太ってしまっていた。メタボもいい所だ。学校中の女子生徒の憧れだったはずのその顔は、見る影もなく丸くなり、脂ぎっている。視力が落ちたらしくメガネをかけているが、そのレンズはとんでもなく分厚い。今は度が高くてもスタイリッシュなメガネもあるというのに。あごは当然のように二重だった。いや、よく見ると三重だろうか。小林は口を開くこともできず、呆然と松井(らしき男)を眺めているしかできなかった。
もうあの女を殺すしかない、妻を。結婚して15年、愛らしきものがある時代もあった気がする。しかし今となってはそれは遠い幻、もはや憎しみや嫌悪、侮蔑、そういった気持ちしかあの女には抱けない。いつからだろう、次第に口を聞かなくなり、寝室が別になった。それだけではない、ついには洗濯物までが別になった。その時は、あの女が俺のことを汚いと思っていることが明らかになり、表では無関心を装ったが、内心では、はらわたが煮えた。今ではもう会話はほとんど無いし、食事も別々に取っている。かと思えば、あの女は頑なに離婚届けには判を押さなかった。内心では俺のことを汚く、出世もしない稼ぎの低い男と馬鹿にしているくせに、その俺の稼ぎにあの女はしがみついている。なんて下劣な人間だろうと思う。
もうこれ以上は限界だ。俺のことを内心で馬鹿にしている女。また、俺もあいつのことを心底嫌っている。それなのにこの腐りきった共同生活には離婚という終わりすら見えない。だったら、殺すしかないだろう、殺すしか。だがどうやって。自慢じゃないが俺は昔から頭を使うことが苦手だ。俺なんかが殺人をやらかせば、100%何かへまをして捕まるだろう。そもそも、大卒のインテリがやってさえ捕まるのが殺人だ、俺なんかに逃げ切れるはずがない。とは言え、あの女のために残りの人生を塀の向こう側で過ごすなんて耐えられない。何かいい方法はないものか。
そこまで考えて、ふと一人の男の顔が頭に浮かんだ。高校時代の親友、松井太郎の顔が。俺は友人を作るのが苦手だった。表面的な友達はわりと簡単に作れたが、腹を割って話せる友達となると、自分の43年の人生を通じて考えてみても、たった一人しか思い浮かばない。それが松井太郎だった。ただし、その唯一の親友とも、高校卒業以来会ってなかった。なぜならば、松井太郎は何もかもが優秀すぎたからだ。才気溢れ光り輝く彼の元に、なんのとりえもない俺なんかがくっついていることは、できなかった。だから俺は、高校を卒業してからは、自ら松井のもとをフェードアウトしたのだ。
松井太郎は、とにかく全てにおいて完璧だった。彼は偏差値の低い我が高校において、初の東大合格を成し遂げた。というか、国立大学に合格したのもその年では彼だけだった。普段俺と毎日つるんで遊んでいたのだから、勉強していたとも思えないのだが、やはり頭の出来が違うというやつだろう。運動をやらせればテニスで全国大会出場を成し遂げたし、絵を描かせれば大きな賞をとったりもした。
そしてそういった長所よりも更に目を引いたのがその容姿だ。今の若い子は格好のいい男に「イケメン」という言葉を使うが、松井の場合はイケメンというよりは「美青年」だった。目鼻立ちがくっきりしており、肌は透き通るような透明感があり、染み一つなかった。男の俺でさえ、彼を間近に見てどきりとさせられたことは一度や二度ではない。
そんな、俺なんかと違い、何もかもを持って生まれた松井だったが、なぜかとても気が合った。高校時代は毎日一緒にいて、バカなことばかりやっていたように思う。毎日が楽しく、輝いていたあの時代。
松井ならば、あの天才ならば、殺人の一つや二つ、あっさりと、完璧にこなしてしまうだろうな、と思った。高校時代の俺とアイツの関係であれば、おれが真剣に悩めば、彼は殺人にさえ手を貸してくれていたと思う。それ程の友情があった。では今はどうか。彼はまだ俺の親友でいてくれるだろうか。彼に相談すれば俺を助けてくれるだろうか。完璧な殺人計画をおれに示してくれるだろうか。手伝ってくれるだろうか。松井さえ味方になってくれれば、あっさりと完全犯罪を成し遂げられる、俺にはそんな確信があった。そして、なんとなく、彼は今でも俺の親友でいてくれている気がした。全てに秀で過ぎている彼も、高校時代は俺しか友人がいなかったからだ。俺は松井に連絡を取ってみようと思った。
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午後8時20分、小林和仁は一人居酒屋の個室にいた。個室であれば、人に話を聞かれる心配はない。彼はそこで高校時代の親友である松井太郎と待ち合わせをしていた。高校の卒業アルバムに載っている連絡先を元に松井を探し、ついには連絡を取り付けたのだった。小林が久しぶりに会いたい、相談したいことがあると伝えると、20年以上会っていなかったにもかかわらず、松井はあっさりとOKしてくれた。松井も懐かしがり、是非に会いたいと言ってくれた。相談は少し深刻なんだと電話で伝えてみた。嫌がられることを覚悟したが、親友の悩みには是非相談に乗りたい、それが友達の務めだ、とまで言ってくれたのには感動した。彼の変わらぬ熱い友情に、不覚にも涙がこぼれた。約束の時間は8時だったが、すでに時刻は20分過ぎている。しかし全く気にならなかった。小林が呼びつけた側だったし、40代の社会人ともなれば仕事も忙しいだろう、不測の残業が発生した所で全く驚くには当たらない。彼が来る前に勝手に飲み食いを始めても失礼と考え、小林は水をちびりちびりと飲みながら松井を待った。そして更に10分程立つと、不意に個室の扉が開かれた。
扉の向こう側に立っていたのは、一人の少女だった。見た目の年の頃は小学生といった所か。そしてその少女は、美少女だった。それも、今までに小林が見たことの無いような、完璧な美しさ。サラサラの長い黒髪は、光輝くように美しい。意思の強い瞳、少し高めの澄ましたような鼻、紅を差してもいないのに赤くふっくらとした唇、一つ一つの完璧なパーツが、完璧なバランスで小さな顔の中に納まっている。肌は透き通るように白い。彼女は無言で、心の中を見透かすような目で小林の顔を見ている。一体誰なんだこの子は、そもそも、夜の居酒屋は小学生が来るような場所ではない。するとその美少女の後ろから、一人の男がひょっこりと顔を出した。そして言った。
「お待たせ。遅れてごめんね、カズちゃん」
高校時代のあだ名で小林を呼んだその男こそ、松井太郎らしかった。
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小林は居酒屋の個室で、テーブルを挟み松井と向かいあった。松井の隣には先ほどの美少女がちょこんと腰を下ろしている。改めて、彼の顔を、体を、しげしげと眺めてみる。これが、この男が、あの美青年松井の20年後の姿なのか、信じられなかった。
松井太郎らしきその男は、すっかり太ってしまっていた。メタボもいい所だ。学校中の女子生徒の憧れだったはずのその顔は、見る影もなく丸くなり、脂ぎっている。視力が落ちたらしくメガネをかけているが、そのレンズはとんでもなく分厚い。今は度が高くてもスタイリッシュなメガネもあるというのに。あごは当然のように二重だった。いや、よく見ると三重だろうか。小林は口を開くこともできず、呆然と松井(らしき男)を眺めているしかできなかった。
作品名:マリオとマリーと殺人計画 作家名:ユウキヒロ