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【猫小話】えんがわ

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少ないながらもボーナスが出た。





 私には養わなければいけない妻子もいない、親もいない身軽で寂しい独り身だ。バブルも弾け、金融不安なご時世だ。節約するにこしたことはないと、日頃は倹約、自炊している。だがたまには、スーパーの値引きされたパック寿司ではない寿司が食いたい。長財布に銀行のATM機で引き出したいつもは野口さんが数人な中身に私的に大盤振る舞いに福澤さんを二人突っ込んで、私は意気揚々と散歩中に発見した侘び寂び溢れる寿司屋の暖簾をくぐった…のだが、書き入れ時であろう時間帯に関わらず、客は私独りの貸し切り状態。カウンター席に腰を下ろした私は居心地の悪さを感じる。慣れないところに来るもんじゃないなぁ…と、後悔したところで後の祭りだ。ささっと摘んで、ファミレスにでも入り直すかと思い直す。
「何にいたしましょう?」
どんっと魚の名前が並んだ湯飲みが私の前に置かれた。
「サーモン、お願いします」
私が注文すると無口な性分なのか店主は黙って、朱色の脂の乗った固まりを取り、すっと包丁を入れた。それを見やり、店内を見渡す。店内は清潔感に溢れ、掃除が行き届いて座敷の障子の桟に埃は見えない。一輪挿しに飾られた小さな花が控えめでいい。店主に愛想はなさそうだが、おしゃべり好きで唾を飛ばされるよりは余程いい。それは問題ではなさそうだ。店は駅前の大通りから外れ、隠れ家的な通好みの店に見えるが何故、客が私独りだけなのだろう?…まさか、とんでもなく不味い店なのか?つっと置かれた寿司を摘み、醤油皿に僅かに浸ける。サーモンは鮮度が落ちると生臭くなる。脂の乗ったそれを口に運ぶ。
(旨い)
評論家ではないので何がどう旨いのか、説明は避ける。貧乏舌には勿体無い、これを食べたらスーパーのパック寿司など食えなくなりそうな味だ。
「鯛をお願いします」
店主は頷き、握る。それを口に運ぶ。これも本当に旨い。調子に乗って品書きに添えられた順番に注文していく。店主は私の注文を黙々と握る。私はそれを食す。魚の鮮度は高く、その日水揚げされたものだろう。しゃりやガリにも店主のこだわりが感じられる。なのに何故、客がいないのだろう?そう思いながら、えんがわに私が手を伸ばした時だった。視線を感じた。私と店主以外居ないはずの店内を見回すと、カウンターの隅に猫が居た。その猫が私をじっと見ていた。…銀鼠色の大きな体の鯖トラ、双眸は濃い緑で、腹は白く尾は長い。その尾が大きく揺れ、「なぁ」と鯖トラが鳴いた。
「どうかなさいましたか?」
口をあんぐりと開け、右手には寿司を手に停止した私を不審に思ったのか、店主が口を開く。
「…猫が、 」
私がそう、口を開けば、店主は店内を見渡し、首を傾けた。
「猫など、どこにもおりませんが」
店主の不思議そうな言葉に、私はまたかと息を吐く。食品を、生物を扱う店に猫は法度だろうし、店内に入れるはずがない。そして、私に見えて、店主に見えないと言うことは、あの鯖トラは「この世」のものではないと言うことだ。


私にはどう言う訳か、猫のお化けが見える。見えるのはお化けの猫だけで人間のお化けには今のところお目にかかったことがない。何というか、猫のお化け専門な変な霊感があった。


私は取り敢えず摘んだままのえんがわを口に運び咀嚼する。鯖トラは恨みがましげな視線を私に向け、ううっと唸り、長い尻尾をバンバンッと叩きつけた。
「…変なことを訊きますが、猫を飼ってましたか?」
私の唐突な質問に店主は不思議そうな顔をしたものの、首を振った。
「銀鼠色の鯖トラで腹が白くて、尾の長い、目は緑色の普通の猫より一回り大きい猫なんですが」
カウンターの隅に前脚を揃え、私を睨んでいる猫を見やり、特徴を説明する。店主は暫し、眉間に皺を寄せ、口を開いた。
「…えんがわ」
「えんがわ?」
店主の口から漏れた言葉を反芻する。店主が思い出したように口を開いた。
「死んだ女房が飼ってた猫です」
「…飼い猫ですか。えんがわは名前ですか?」
「そいつ、えんがわ好きだったんですよ。他のネタには目もくれない猫で」
思い出したのか店主の目元が僅かに緩む。私は鯖トラに視線をくれた。まだ、私を睨んでいる。
「…失礼ですが、あんまりお客さん、入ってないみたいですね」
失礼とは思ったが、そう口を開くと店主は溜息を吐いた。
「入ったかと思ったら、直ぐに出ていってしまうんですよ」
「…でしょうね」
あんなに睨まれては、見えなくても居心地が悪かろう。客がいないのも頷ける。
「お客が帰るのはえんがわを注文した後じゃないですか?」
「…ああ。言われてみればそうですねぇ」
店主は頷き、私を不思議そうに見やった。
「…信じてくれなくて構わないんですがね、カウンターの隅っこに鯖トラがいてね。えんがわを食べる私を凄い形相で睨んでるんですよ。あれは、俺にもえんがわ寄越せって言ってるのかと」
「…はぁ」
店主は気のない相槌を打ち、私を胡散臭そうに見つめる。
「騙されたと思って、カウンターの隅っこにえんがわを供えてみると、いいことがあるかもしれませんよ。…多分」
御愛想と私は席を立つ。全部で十種類ほど食べたが、とても良心的な値段だった。また来ようと心に決めて、私は店を後にした。

 それから一ヶ月後、私は出たばかりの給料を握りしめ、あの寿司屋に向かった。ガラリと戸を開くと、先月の閑古鳥が鳴いていた状況が嘘のように座敷もカウンター席も埋まっている。

「あ、お客さん」

店主は一見の私の顔を覚えていたらしい。無愛想な顔を綻ばせた。カウンターの空いた席を勧められ、腰を下ろすと頼んでもいないのにビールが出てきた。
「いやぁ、お客さんのお陰ですよ。あの後、お客さんの言うとおり、カウンターの隅にえんがわを乗せた皿を置いてみたんですよ。そうしたら、いつのまにか無くなってましてね。続けてたらいつの間にか、客足が戻って来まして、有難うございます。ビールはサービスです。何を握りましょう?」
カウンターの片隅にちらりと視線を向ければ、目を細めた鯖トラがゴロゴロと喉を鳴らし、白い左前脚を挙げていた。



作品名:【猫小話】えんがわ 作家名:冬故