残暑見舞い
とどまることを知らない残暑は、わたしをじとりと包み込んで、この屋敷から外へは一歩も出させてくれません。ここでずっと待っているようにと、言っているみたいです。待っていなさい、その時まで。
だけどわたしは人間です。
新鮮な空気が吸いたくなる。外で思い切り走りたくなる。誰かと言葉を交わしたくなる。
待っていてばかりでは、駄目なのです。
わたしは今すぐにでも駆け出さなくてはならないのに。こんなところで微笑ましく猫と微睡んでいる場合ではないのに。待っていなさいと、硝子越しの青い空はわたしに語りかけます。
ああ、流れゆく雲が憎い。
吹き抜ける風が憎い。
囁き合う鳥が憎い。
ああ、わたしに自由をください。勇気をください。
いま、わたしの膝の上では変わらずに、可愛らしい猫が寝息を立てています。
あなたもよくわたしの膝の上で、幸せそうに寝息を立てていたのを思い出します。
そう。わたしはあなたを迎えにいかなければならないのに。
どうしてでしょう。わたしはどこにもいけないのです。
あなたのもとにも、自分の家にも。
まるで、ゆき場のないこの猫のよう。わたしの膝の上でしか生きてゆけない可哀そうな猫。
あなたは一体、わたしの膝の上で、どんな夢を見ていたのですか。
猫の小さな額を撫でながら、わたしはいつも思うのです。あなたの見ている世界を、あなたの生きる世界を、わたしのいない、あなたの世界を。わたしと過ごした思い出にすら浸れない、悲しみで満ち満ちた世界を。
あなたは、その閉じた瞼の裏に、いつもどんな色を映していたのでしょう。
もう、知る由などないけれど。もう、答えなど意味はないけれど。
わたしの膝の上では、時折ぴくりと耳をはためかせる猫が、気持ち良さそうに眠っています。
このあと何処に向かうのか、わたしには分かりません。
わたしが分かっているのはひとつだけ。
あの暑い夏の日、わたしはアスファルトの上で、この生涯を閉じたこと。あなたを迎えに行こうとして、わたしの小さな体は無残にもひねりつぶされてしまいました。
あの日は、還暦のお祝いをするはずでしたね。ごめんなさい、あなた。わたしがどじなばっかりに、こんなことになってしまって。
ふと、影が差し込んだ。
わたしの膝の上では、相変わらず心地よさそうに、猫が寝息を立てています。