一通の遺書
伴う殺意は、静かに、重く暗く冷たい、丑三つ時の鉛色に染まった湖が時折見せるこの世の狭間に似ていた。
私は誰に憤りを感じているのか、わからない。
例えば、あなたが道を歩いていたとして、雲一つ無い青空から不意に雨が降りだしたとする。なにを恨む事が出来るだろうか。精々、天に向かい悪態を突く事しか出来ないだろう。天に唾する事が精一杯なのだ。そういう意味では、私は非常に不仕合わせであった。「馬鹿野郎」と罵れば、幾らか楽に成ろうである捌け口を完全に失っていた。友人等と話し、笑っていたとしても、脳裏にある白地に付着した血の様な一点の染みを払拭する事が出来ない。赤々としたそれは、周囲の白を次々に浸食し、私を慌てさせたりするのだけど、生憎私に抵抗する術は無く、ただ黙って見ている他に出来る事は無かった。この無力感も私の苛立ちを増長させたのは言うまでも無いだろう。
殺意というのは愛情に似ていて、興味の無い相手にはほんの少しだって起こり得る事は無い。だから無差別に人を殺す輩は人間ではないのだ。もっと他の、きっと、私達とは遺伝子の配列だとかが違う、人間に似た生き物に決まっている。
何故殺意を持った私が、無差別殺人者を不具の様に貶めるのかというと、私がその不具者とは一線を画す者だからだ。
私が持つ殺意とは、私自身への殺意なのだ。先程申し上げた通り憤怒の原因については、よく分からない。だからこそ、反動として無能で役立たずな私を殺したく成るのかも知れない。私の人生に於いて、自分という人間は、避けて通ることが出来ない。関係の無い人間で有れば有る程、殺してしまう必要が無いのだ。だから、私が私を殺そうとする事に、一点の矛盾もなく辻褄が合う。そこに私の感じている苛立ちを動機として当て替えば、全てが滞り無く、真っ当な殺害の理由、殺害された理由が成立する。
だからこそ私は不具者ではなく、真っ当な人間として、ここで殺人の罪を犯し、また死を持ってこれを償う所存である。