東京タワー
恋人から「日曜日はどこに行きたい?」と聞かれ、返答に詰まった。
私はアラフォー。
もてないわけではなかったから、いくつか恋愛もしてきた。おかげで都内のデートスポットは行き尽くしている。
月曜日のことを考えると遠出は億劫だし、特別行きたい場所なんて、今さら思いつかない。
そもそも恋人と一緒にいられるのなら、どんな場所であろうとかまわないのだ。
「隠れ家的な良いレストランがあるから行こう」と誘われてついていくと、前の男たちと来た店だった、ということがあったとしても、それはご愛嬌。
積極的に行きたい場所が思い当たらないまま、「あなたの行きたい場所に行きたい」と年甲斐もなくかわいい子ぶってみた。
彼は「任せてもらうよ。当日まで内緒」と、嬉しそうだ。
行き先が客に知らされないミステリーツアーのようで、私も久々にワクワクした。
日曜日、彼は車で迎えに来た。行く先の推定範囲が広がったが、高速に乗る気配もなく、都心の混んだ道路に時間を気にしている様子もない。
品川に入った時点で、彼が言った。
「見えてきたよ」
真っ青な空に、高く高くそびえる赤い鉄塔。
街道の緑の木々に気を取られ、私は彼が何を指しているのか、はじめは分からなかった。
「スカイツリーは先月に行っただろう?だったら『元祖』もたまには良いと思ってさ。実は十年ぶりなんだ」
そんな――どうしよう…。
嬉しそうな彼に、今さら「針路変更!」なんて言えるわけがない。
都内の至る場所を行き尽くし、特に行きたい場所もない私が、唯一「行きたくない場所」があった――東京タワー。
思い出さないようしていたら、本当に忘れていた。目前にしてこの忌まわしい場所を思い出したわけだが、遅すぎる。
入場券売り場もエレベーターも、あのときのままだった。自分の記憶の鮮明さに驚いてしまう。
特に、展望台。何一つ変わってはいない。
人の気も知らず、彼はニコニコと、富士山だのTBSだのと、展望台からの眺望に子供のように夢中だ。
「あっちがお台場か。パレットタウンの観覧車、見えるかな?ほら」
その方向は私の鬼門だった。
彼に手を引かれ、見覚えのある景色が眼前に広がる。私は耐え切れず、泣き出した。
三十歳目前というとき、当時付き合っていた男とここに来たのだ。
結婚の夢をふくらませ、彼の子供がおなかにいることを打ち明けた。
愛し合っているから、喜んでくれると思ったのだ。
ところが彼は、堕ろしてくれと言い、それきりになった。
私は、一人残って数時間もお台場方面を眺めていた。そして、子供を堕ろすことを決めた。
東京タワーは、私が愛を失って、子供を捨てて、世界が終わった場所だった。
以来、恋愛を冷めて見るようにしている。「前と同じ」「こんなもんか」「期待したら傷つく」。
寂しいから誰かといたいけれど、世界の終わりは、もうごめんだ。
こうして、この歳まで来てしまっていた。
事情を知らない恋人は困り果てている。今は優しいこの人とだって、先の確証はない。
男と女、果実が実っても、結ばれるわけではないのだ。
ただ、おなかの中はいつまでも哀しい――。
彼が言った。
「ここは、ぼくの思い出の場所なんだ。十年前、すごく好きだった人にプロポーズして、玉砕した。
でも、この次にすごく好きになった人と、もう一度ここに来たいと思った。リベンジ・東京タワー!、なんてね。
十年かかったけど、きみと来ることができて嬉しかったんだ…だけど、泣かしてしまった、ごめんね」
あなたのせいじゃない、私はここで子供を捨てたのと、無言で首を振ったが、彼には通じなかった。
ただ、彼は私の肩を優しく抱きかかえてくれていた。
泣き疲れ、彼にもたれ景色を見ていると、隣にいた夫婦の会話が耳に入ってきた。
「ここ、夜もやっているんだ。晴れていれば、けっこう夜景が奇麗なんだよ」
「では、昼間とは違った景色に見えるのね」
私は、いつかこの人とここで、東京中の夜景を眺められたら良いなと、ぼんやり思った。
お台場の大観覧車のネオンに、捨てた子供も慰められてほしいと、願った。
<おわり>