現代異景【プレ版】
結構遅くまで起きてたつもりだったんだけど、眼鏡君の言ってた話し声ってのは全然聞こえてこなくてさ。そこまでオッサンの話に興味あるわけでもなかったら、その日は結局寝ちゃったわけ。
次の日。
俺、すげえ低血圧でさ。朝起きんの超苦手なんだよ。いっつも朝食が配られる時間に無理矢理起こされる感じだったんだけど、その日は何かすげえうるさくて、目が覚めたんだよな。
誰が騒いでんだって思ったら、あの眼鏡君だったんだよ。
「いいんだよ! 俺もう治ってんだから! 退院させてくれ! 出て行く! こんなとこ誰がいるか!」
──こんなとこにいたら殺される!
何の──話してんだこいつって、マジで驚いたよ。
明らかに普通じゃないんだ。キレてるとかそういうレベルじゃない。
もう、狂っちゃってんだよな。
涙も鼻水も涎も、もうダラダラでさ。
それこそ看護婦が何人か来て押さえつけてんだけど全然駄目で、しまいには変な注射打たれて別の病室連れてかれてさ。そっからもう二度と、その眼鏡君とは会わなかったんだけど。
連れ出される直前に、何か俺の方ちらっと見たんだ。
目が合ったんだよ。
──二人分。
そう言った。
はぁ? って感じじゃん。二人分って何だよって。俺に関係ねえだろそんなの。
よくわかんねーって感じで、まあかなり遅れた朝食を食ってさ。後はいつもと変わらねえよ。検査して、リハビリして、体拭いて、本読んで煙草吸って寝る。消灯時間になって、病室が真っ暗になってさ。
そこで、ふっと気になったんだ。
頭おかしくなった眼鏡君が言ったことがさ。
──二人分。
何のことかは全然わかんないけど、妙に気になる。
昨日まで普通に話してた奴がいきなり狂ったんだから、余程のことだろ。
悶々としてああでもないこうでもないって考えてたら、全然寝付けなくってさ。気が付いたらもう夜中の十二時過ぎてんだよ。ああやべえ、また明日起きるのしんどくなるって思ったけど、寝よう寝ようと思うと逆に目が冴えるのな。むしろどんどん眠気が吹き飛んでくわけ。
──全然眠くなんねぇな。
とりあえずトイレ行って、んでもう一回横になろうと思ってさ。
車椅子押してトイレ行って、帰ってきて。
今度こそ寝るぞって思ったときに──
「……、……さ──……めん、……て」
──ああ、あのオッサンか。
眼鏡君が言ってた携帯で話してるって、これか。
確かにぼそぼそ言ってる。病室の入り口で聞こえるんだから、隣だったら確かにうるさいかもなってぐらいの声量。俺もうるせえな、病室出てけよとは思ったけどさ、眼鏡君の言った通り揉め事起こすのも馬鹿らしいし。第一あのオッサンなら注意したって逆ギレするだけだってわかってたからさ。看護婦呼べばいいのかもしんないけど、それでオッサンがまた何か言い出したら、逆に看護婦に悪いじゃん? みんなあのオッサンすげえ嫌ってるの知ってるし、ゴタゴタさせるのもまずいかなって思ったわけよ。
まあ、最初はそうやって我慢してたんだけどさ。
十分も経つ頃には、苛々しちゃってさ。
お前いつまで話してんだよ、いい加減にしろよって。
十五分、二十分って過ぎても話してる。
三十分過ぎてもまだぼそぼそ言ってる。
これは流石に洒落にならねえよ。うぜえし、マジ迷惑だし。
こっちはただでさえ眠れないんで苛々してんのに、てめえは何ごちゃごちゃ言ってんだって思ってさ。
ベッドから起きて、車椅子に乗ったよ。一言注意してやる、キレられたらこっちはそれ以上にキレて怒鳴りつけてやるって思って、オッサンのベッドの方に向かったわけな。
「──い、……ご……け──」
まだ何か言ってる。
言い続けてるんだ。
途切れないんだよ。
普通電話してるときってさ、相手の話を聞いてる間はこっちが黙るだろ? その、沈黙がない。ずーっと喋りっぱなし。どんだけ自己中なんだって話だろ。
でもさ、どうやらそういうわけでもないみたいなんだよ。
のべつまくなし喋りっぱなしではあるんだけど、オッサンは延々おんなじことを繰り返してるだけなんだよな。
──何言ってんだ、このオッサン。
車椅子を押す。
タイヤが妙に重い。
きい──きい……って、病室に音が響く。
起きてんだから、音に気付かないわけがない。
でも、オッサンは相変わらず小声でぼそぼそと話し続けてるんだ。
「──めん……さ──、た……て──」
きぃ──車椅子が鳴く。
仕切りのカーテン一枚隔てた向こうで、オッサンは喋り続けてる。
──ご……、……さい。──す……て。
──……なさ……たす──て。
──……めんな……、……すけ──。
「──……め……だ──した、……ね」
──ごめ──さい、……けて。
何を。
何を言ってるんだ、このオッサンは。
それに、
一瞬──オッサン以外の声が聞こえた。
聞き間違いじゃない。明らかにオッサンの声じゃない、もっと若い──つか、ガキみたいな甲高い声だった。一人二役で喋ってるんでもない。明らかにその声は、オッサンが喋ってる途中に混ざって聞こえた。
カーテンに手を伸ばす。
手が震えてどうしようもなかったよ。
真っ暗な部屋の中で、ぼそぼそと喋る声だけが聞こえる。
後は何にも聞こえない。
巡回に来るはずの看護婦も姿を見せない。もう一人の患者の寝息も聞こえない。
俺だけだ。
俺とオッサンだけが、この病室に取り残されている──この病室の中の、異質な空間に。
カーテンを開けちゃいけない気がした。
でも、開けないといけない気がした。
──ごめ……さい、……すけて。
「だ……だ、あし……、──ね」
何を。
何を言ってるんだ?
眼鏡君は何て言ってた?
──二人分。
オッサンの声と。
──さっき聞こえた、オッサン以外の声と。
二人分ってことか。
──……んなさい、た……けて。
──ご……なさい、たすけ……。
「だめ──、あ……た、……ね」
──ごめんなさ……すけて。
心臓が壊れそうなぐらい痛む。
何だ。
何なんだこれは。
俺は。
カーテンに手をかけて、
一気に、
ジャッ──と開いた。
「ごめんなさい、助けてください」
「駄目だ、明日死ね」
ベッドの上で丸くなってるオッサンと、
ベッドの下から顔だけ出したニヤニヤ笑う子供と、
両方を見て──俺は、病室から飛び出した。
正直、そっから先はあんま覚えてないんだよな。夜中に大騒ぎしてさ、ナースステーションで朝までがたがた震えて過ごして。んで、朝になったからっつって病室に帰されたら、もうあのオッサンはいなくなってた。ベッドはもぬけのからでさ。眼鏡君のベッドはすぐにまた新しい患者が入ったんだけど、オッサンのベッドはずっと空きのままだったな。
何かさ、滅茶苦茶怖かったよ。
俺はその後すぐに無理言って退院させてもらったんだけどさ。
オッサンがいなくなって、看護婦が二人でベッドを片付けに来たんだよ。シーツを外したり、何か掃除したりとか、色々やってんだけど。
「あのオヤジ、やっぱり駄目だったね」
「今回は早かったね」
──ああ、
こいつら、知ってたんだ──って思った。