水槽奇譚
私はついつい先生の後姿に向ってそう尋ねていた。
私の真横には今まで見た事も無い人ひとり入れてしまう位の大きな水槽が置かれていたのだ。
だが、其処には何も入っていない。
観賞用であるにしても魚は勿論、水草の類も全く入っていない。
水だけが張ってある。そういう代物だった。私が不思議に思って先生に尋ねてみたのもむべなるかなという所である。
「ああ、その水槽かね……」
私の問いに先生は億劫そうにそう言うとクルリと此方を向いた。
以前お会いした時よりも大分痩せている様に感じられた。
元々痩せていた身体が今では骨と皮ばかりと言っても良い様な有様になっている。
――どうも最近先生の様子がおかしいから、君、一回様子を見に行って来てくれないかね。
そう上司に電話越しに言われたのは丁度昨日の真夜中。
若輩者である私が上司に逆らう事など出来る筈も無く、それに先生の体調も確かに気になったので今日の昼頃にこうして伺ったという次第。
すると、目の前に見た事の無い水槽がでんと鎮座ましましていたのだ。
先生の編集者になって二年目になるがこんな水槽が先生の部屋に置かれて居た所をついぞ見た事が無かった。きっと何かの気まぐれで新しく買ったのだろうと思っていると、
「いやな、三カ月ほど前に骨董市で買ったのだよ。綺麗な水槽だったから」
予想した通りの答えが返って来た。
「まあ、確かに綺麗ですねぇ……」
私は曖昧に返事をしながら繁々と目の前の水槽を見つめた。
中国風の文様が線で描かれているそれは確かに見る人の目を楽しませるのには十分だった。綺麗物好きの先生が買ったと言うのも頷ける。
「だろう?」
先生はそう言いながらまるで夢見る様に話を続けた。
「それになぁ、それ、水槽の中にそんな綺麗な人魚がいるんだから、もう堪らんよ。一目惚れだ」
人魚?
私はもう一度ジッと水槽の中を見つめた。
だが、其処にはやはり何も無かった。
唯水だけが張ってある。
急に部屋の中が気味の悪い物で埋め尽くされたかの様な気分になった。
「あの、先生。お元気そうで何よりでしたので、私はこれで失礼させて頂きます……」
私はそう言って立ち上がった。
「おいおい、北条君。ちょっと待ちたまえよ。まだ来てから一時間も経っていないだろうよ」
先生はトロンとした目つきをしながらそう言った。
だが、先生の言っている事は全く違っていた。正確には既に三時間近く僕はこの部屋の中にいるのだ。自然と鳥肌が立った。
――ああ、先生、歳のせいで頭がやられたかな……。
私は部屋の中の気味の悪い雰囲気の由縁をそんな理由に帰結させた。
全ては先生の頭がちょっとおかしくなっているから。それで済ませようとしたのだ。
「いえいえ、もう直ぐに出版社に戻って会議をしなければいけませんから……」
私はそう言って大急ぎで立ち上がると、先生の止めるのも聞かずに襖を開けて外へと出た。
その途端に、後ろからお待ちになって、と聞いた事も無い女の声が聞こえて、僕は思わずその場からどたどたと駆け出していた。
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先生が自宅の水槽の中に入って溺れ死んだと聞いたのは、その日の夜の事だった。