置き忘れたもの
喫茶店の日当たりのよい席に僕たちは腰掛ける。注文するメニューはいつも決まっていた。僕はコーヒー、真理子はオレンジジュース。
「ねえ、聞いてくれる?」
真理子はストローの包装紙を指先でクルクルと丸めながら僕の顔を覗き込んだ。
「うん」
そういう段取り(儀式?)を経て、真理子は話し始める。
世界中で読者を一人しか持たない小説家のように、僕の顔を見ながら(大切な読者に向けて)ありとあらゆるメッセージを伝えようとした。
仕事のこと、お洒落に気を使い始めた中学生の娘のこと、半年前に買った中古車の調子が悪いこと、庭に植えたビオラの生育が悪いこと、洗濯機の調子が天気によって大きく変わること…。
僕は「うん」と相槌をうったり、「それで?」と話を促したりした。
実のところ、僕は真理子の話を半分も聞いちゃいなかった。
楽しそうに話す真理子、悲しそうに話す真理子、悔しそうに話す真理子…。
そんな真理子の表情を見ているのがとても好きだった。
「ちゃんと聞いてる?」
彼女は時々僕に確認した。
「もちろん聞いてるよ」
僕は答えた。
そして真理子は話の続きをはじめる。
すごく無意味な時間だったかもしれない。そこでは「何かを得る」ことも「何かを喪う」こともなかった。
だけど、僕はその無意味な時間が好きだった。
「世界の終わりの日」が来ても、テーブルに頬杖をついて、「世界が終わって悲しむのはきっと占い師ね」というたぐいの真理子の(無意味な)話を聞いていたことだろう。
あれから何年が過ぎたかな。
「真理子…。もう少し話をしよう。僕たちにはまだまだ話すことがたくさんあったはずだよ」
僕は呟いた。
もちろん真理子にその声は届かない。
世界中の誰にもその呟きは聞こえない。
僕の心の中で、喪われつつある真理子の記憶を求めて空ろに響くだけ。
僕は心の半分をどこかに置き忘れてきてしまったみたい。
でも、僕にはどうすることもできない。
ごめんな、真理子。
もう忘れ物を取りには戻れないんだ。
永遠にそこに残したままなんだ。
もう歩き始めたんだよ、僕は。
ごめんね。