お金が欲しい理由
あたしが働いていたホテルは「どんなサービスも仰せのままに」といった大袈裟なキャッチコピーを掲げていたから、時々、悪乗りしてわざと夜のサービスを要求する客がいた。
大方はおふざけだったので、従業員たちも上手くあしらっていたが、あるとき、おやじの客があんまりしつこくて、騒動になった。
女性スタッフがヒステリックに喚くと、客も逆切れし、
「何がサービスだ!結局金が欲しいんだろう。金ならあるぞ!」
と、ホールに札束を投げつけた。
現ナマの大金に、周囲は呆然。
支配人がやって来てようやく場が収まったが、客も従業員も野次馬も去った静けさの中で、あたしは先程の札束のことを考えずにはいられないでいた。
ホールの絨毯に横たわる分厚い束。
投げつけられた瞬間、生きの良い魚のように中心を折り曲げてはねた。
どっしりとした重量感に、絨毯がその部分だけを柔らかく沈めた。札束を中心に、絨毯のくすんだ赤が濃い鮮やかな色に蘇り、広がる。
なぜ?――目に焼きついて放れない。
就業後、あたしは先程の騒ぎの客の部屋へ行き、「私が相手をしますから、お金をください」と申し出た。そして、おやじの客とセックスした。
コトが済み、あたしはお金を要求した。ところが客は嘲笑い、このホテルは売春宿だったのか、支配人に言いつけるぞ、マスコミに言うぞ、と逆に脅しにかかってきた。
あたしは一銭も手に入れることなく、部屋を出て行くしかなかった。
しかも、おやじはホテルのバーで他の客にそれを自慢したものだから、上司の耳にまで届き、あたしは解雇されてしまった。
ホテルを出るとき、あの大金が思い出されて仕方がなかった。
クビになったことよりも、お金にこそ悔しさが残ったのだ。
その後もお金のことが頭にちらついて離れない。
とにかくお金が、現ナマが欲しい。すぐに欲しい。札束を胸に掻き抱きたい衝動に、どうにもこうにもいられない。
お金が欲しい!
これが、あたしがコールガールになった「理由」だ。
一晩に何人ものセックスの相手をした。大金が手に入る度、満ち足りた思いでいっぱいになり、幸福を実感できる。
ところが、あればあるだけすぐに遣ってしまう。するとたまらなく不安になり、また客を取る。
「何でコールガールなんかやっているの?」
あるとき、帰り支度を始めたあたしに、客が訊いた。
こんな質問をしてくる客は、珍しくはない。
「お金が欲しいから」
あたしはいつもそう簡潔に答える。
すると客たちは、やっぱりね、という顔してそれ以上は聞かない。
しかし、今日の客は質問を続けた。
「何でそんなにお金が欲しいの?」
そこであたしもはじめて不思議に思ったのだ。
そういえば、あたし、何でこんなにお金が欲しいのだろう…?
生活、贅沢、将来のため?
違う気がする。何かと引き換えるからこそ価値があるのに、あたしは、「お金」そのものが欲しいのだ。
口ごもるあたしに、客は静かに言った。
「俺は、とにかく女が欲しいんだ。欲しくて欲しくてたまらない。
でも、いくら抱いてもきりがない。この歳になると勃たないことも珍しくない。それでも女を呼ばずにはいられない。
分かっているんだ。本当に求めているのは、もっと別のものなんだって。でも、それはなかなか手に入らないから、せめて『女』という形で俺は求めてしまう。
君のお金も、俺の場合と同じかもしれないね。いや…すまない、若い君にはきっと事情が」
客は金を差し出した。
いつも通りに受け取ったつもりが、握ったときの感触に、はっとした。
なんて頼りない。乾いた音を立て、掌で簡単に潰れる。
温かくもない。温度がない。
――求めてやまないのは、もっと別のもの。
二度と幸福な気分にはなれなかった。あのときの札束を思い出しても悲しいだけだ。
喪失感に打ちのめされたが、あたしには最初から何もありはしなかったのだ。
「理由」を知っても、あたしは、これからも誰かに抱かれ続けるだろう。
幻の「お金」を求めて。いつかお金に心が宿ることを、微かな希望にして。
<おわり>