ひとつだけやりのこしたこと
2年半にわたってごく個人的な恋愛をつづってきました。おつきあい下さった読者の皆様、ありがとうございました。
最後は「さとみと暮らしはじめました。私たちは死ぬまでしあわせに愛し合うでしょう。応援、ありがとうございました。皆様のしあわせをお祈りします。」と、終わるはずでした。
そうして、中高年になっても、こんなすてきな出会いがあること、愛し合うことで人は変わっていくこと、対等で自由で、お互いを尊重しささえあう関係がこれほどのしあわせをもたらすこと、そうしたことを読者に伝えたい、そう思って書き継いできたのでした。
まったく想像もしない思いがけない結末になりました。
(考えてみれば始まりも思いがけないものだったのだけれど。)
2年半のあいだに実際にさとみといた日々はわずか30日あまり。
でも、毎日1時間以上電話で話していました。
いまわたしはさとみのいない現実を生きようとしています。
たまにさとみにメールすることはあっても、一生会うことはないでしょう。
それがどんなに悲しくてつらくても。
ときどき考えます。
なぜこんなにさとみに惹かれ、いまも忘れられないのだろう。
さとみとほかの女性のどこが違うのだろう。
さとみといた日々、なぜあれほどしあわせだったのだろう。
さとみを失ったことがなぜこれほどつらいのだろう。
なぜなかなか立ち直れないのだろう。
答えは出ないけれど、恋愛って、たぶん、答えが出ないことなんだろうけど、一つ考えていることがあります。
それは、わたしたちの姿勢。
あの時わたしは死のうとしていました。
さとみと出会って、わたしはひとを愛する、ということを生まれて初めて真剣に考えはじめました。
可能な限り実行しました。
たくさん話し合うこと。どんなことも隠さないこと。相手を思いやること。
そしてさとみはそれに真剣に応えてくれました。それはつらい経験をこえてきたさとみの願いでもあったのです。
わたしたちはただ好きだからつきあっていたのではなく、二人で「いい関係」をつくろうと話し合って、二人で努力を重ねてきたのです。
「つださんとふたりで幸せになります。
ふたりとも、しあわせになるには努力が必要なことを知っているから。」
(日記に対するさとみのコメント 2009年8月23日)
二人ともが初めて知った深い幸福感、そこにはセックスの際の驚くほど深い快感も含まれるのですが、つながっている悦び、共有する喜び、ともにあることの安らぎ、そういったことのすべてがこの二人の努力に対する神様からのご褒美だったのかも知れません。
そうしてわたしたちはそれぞれの過去の傷を癒しあいました。そしてさとみは新しい道を自分で選び取ることができたのです。長崎でではなく、自分の居場所である千葉で。薬剤師である彼女はいま、母親・新しい恋人と一緒に、実家の薬局の経営を建て直そうと努力しています。
わたしも自分の居場所であるここ長崎でわたしの道を進もうと思います。
残された日々で何ができるかわからないけれど。
少しずつ、傷を癒しながら。
だから、さとみの話は、これで終わりです。
さとみ
出会ったこと、ほんとうによかったね。しあわせだったね。
「私は毎日、とても楽しく充実しています。
いまこうしているのはつださんがいたから。
しあわせだよ、楽しいよって報告を待っています。」
(2011年7月2日さとみからのメール)
うん。かならず。
ありがとう、さよなら、さとみ。
2011年07月04日 21時28分 記す
作品名:ひとつだけやりのこしたこと 作家名:つだみつぐ