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タマ与太郎
タマ与太郎
novelistID. 38084
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裏通りにひっそりと佇む小さな音楽ホールがある。その日そのホールにはギターケースを抱えた精鋭たちが集まってきた。新人ギタリストの登竜門である国際コンクールへの選抜オーデションが行われるためだ。
 その中に美村彩の姿があった。地区予選を勝ち抜き、今日このオーデションで選抜されればさらに上のステージへ登ることができる。
 選抜枠はたった1名だ。控え室で彩は右手の爪をヤスリで磨きながら譜面を開いた。演奏する曲はバリオスの「大聖堂」。3楽章からなる大曲だ。もちろん暗譜で弾くわけだが、曲想を確認するために最後の調整を行った。彩の出番は終わりから2番目だ。
緊張する彩のところへ森崎奏治が近づいて来た。奏治はこの日のオーデションの大本命で、演奏もトリを務める。
「美村さん、どう調子は?」
「あ、森崎さん、もう緊張しちゃって、ほら」
 彩は冷たくなった左手を奏治に向けると、奏治はその手を軽く握った。
「わ、こんなに冷たくなっちゃって。でもお互いに頑張ろうな」
「はい」
 二人はいくつかのギターの大会で顔を合わせており、良き友であり良きライバルでもあった。

 審査員が席に着き、客席の照明が落とされ、一人目の演奏が始まった。審査員の鋭い視線と、肥えた耳が容赦なく演奏者にプレッシャーを与えた。
二人目、三人目と演奏は続いた。残された演奏者たちはプレッシャーと戦いながら無言のまま最後の調整に入っていた。彩も奏治も例外ではなかった。
 残るところあと二人となったところで突然進行役が舞台に現れた。
「都合により最後とその一人前の演奏者が入れ替わることになりました」
 審査員たちは戸惑いながら、彩と奏治のエントリーシートを入れ替え、次の演奏を待った。
 本来トリを務めるはずの奏治が登場し、バッハの「シャコンヌ」を見事に弾き終えた。そして他の演奏者より長いインターバルのあと、彩が紹介され、オーデション最後の演奏が始まった。
 彩の演奏は審査員全員を唸らせた。 

 全てのエントリーが終了し、演奏者全員がステージに上がった。審査委員長より合格者の氏名が読み上げられた。
「美村彩さん、おめでとうございます」
 彩は皆に祝福されステージ前方に進み、喜びのコメントを行った。
「本日このオーデションを通過することが出来たのは、ここにいる皆様のおかげです。本当にありがとうございました。ここで皆様にどうしてもお伝えしたいことがあります」
 大きな拍手のあと、観客は彩の次の言葉を待った。
「私は自分の出番の直前に椅子の背に右手をぶつけ、親指の爪を折ってしまいました」
 観客はどよめいた。
「クラシックギタリストにとって右手の爪は命です。もし最終演奏者であった森崎奏治さんが、ご自分の演奏のあと自らの爪を切って私に提供して下さらなかったら、私の合格はなかったでしょう」
 観客は一瞬の沈黙のあと、舞台後方に立つ奏治に向けて湧き出るような拍手を送った。
彩は右手を握り締め、親指だけを立てると観客席にかざした。
「森崎さんの爪と瞬間接着剤にもう一度大きな拍手を」
 拍手の中、観客の一人が「ブラボー」と叫んだ。

(おわり)
作品名: 作家名:タマ与太郎