珈琲日和 その15
「嘘つき・・・ そう、言われました」
俄に老紳士はそう言って、困ったように少し小首を傾けながら微かに微笑みました。
窓硝子から差し込んでくる痛い程の夏の日差しの強さのコントラストで、室内全体の明度がやけに落ちたように沈み込み、そのせいなのか、細かい水滴がグラスの表面を静かに覆い始めたアイスコーヒーを傍らに置いて両手を組み合わせ、これ以上は何も言う事等ないとばかりに口を閉じた老紳士がまるで実体のない残像のように見えました。紳士の被ってきたカンカン帽だけが、やけにぼんやりと白く浮き上がるようにして視界の隅にチラつきます。
僕は取り分けたカレーの小鍋を弱火で引き続き揺すりながら、老紳士が再び話し始めるまで黙っていました。当店自慢の煮込んだカレーの表面には、まだなにも変化はなく、カレーも老紳士もそのまま時が止まってしまったんじゃないかと思うくらいの、まるで白木蓮の花弁が一枚一枚落ちて行くようなそんな厳かな静けさでした。
遠くから蝉が今を盛りに鳴いているのが聞こえてきます。最初は寄せて来る波のように力強く長く、途中から耳鳴りかと思うくらいの音量でフレーズが短めに、一息つく前は気のせいだったのかと思う程控え目に溶けるようにしていつのまにか鳴きやんでは又繰り返す。その心地好い音波の波は、聞いている者を眠りに誘う効果があると僕は常々思っていました。いえ。夏自体が暑くて意識が朦朧とする為なのか、それとも暑さに体力を消耗しない為に温存しておこうという体の機能なのか何なのか、ぼんやりと眠くなってくるのです。なので、僕は休みの日には必ず昼寝をします。何やら沖縄等の暑い地域に住んで方々は、涼しい早朝から午前中にかけて仕事をして、昼ご飯を食べたら、一日のうちで一番暑い盛りの時刻には昼寝が当たり前だとか。本当でしたら、僕も店を開けていても、昼過ぎから閉めて昼寝をしたいところなのですが、生憎、時間がお金変換になる都会ではそうはいきません。仕方なく、なるべく蝉の声に聞き入る隙を作らないように、眠さを思い出さないように忙しくして過ごす事にしています。例えば、トマトソースを丹念に仕込んだり、時間をかけてチーズケーキを作ったり、料理書を捲ってメニューを考案したり、壊れてしまった珈琲ミルを分解して素人の修理を試みたり、お気に入りの音楽をかけて踊り狂ってみたり。どれもこれもお客様がいらっしゃらないが故に出来る事ですね。つまりは最近、いえ、夏に入ってから頻繁に、お盆を挟んでいるせいなのか、お店が比較的暇だと言いたいのでした。
そうこうしているうちに、小鍋の中のカレーが簡単な噴火する前の溶岩の如く、ふつふつと小さな呟きを漏らし始めました。それを見計らって、僕は用意したお皿にこじんまりとしたご飯の山を盛りつけました。
老紳士は、やはりさっきと同じ姿勢で、両手を組んだ辺りをぼんやりと見つめながら、いつもの穏やかな笑みを口角に張り付かせたまま、物思いに耽っていらっしゃいました。その細く開かれた優し気な目に何が映っているのかは、僕には推測も出来ませんが、人は生きているうちに様々な事を経験します。最大の喜びや苦しみや悲しみや幸せ等です。長く生きていればいる程それが多くも長くもなってくるでしょう。今、目の前に腰掛けていらっしゃる老紳士が、ここまでの過程にどんな事を味わっていらっしゃったのかは、わからないですし、わからないのが部と言うものです。余計な詮索は野暮な事。
例えば、もし辛過ぎる過去を抱えていらっしゃって誰かに聞いてもらいたい、心情を理解して欲しいと言う願いをお持ちでしたら、自ずと誰かに話すでしょうし、逆も然り。なので、何かを言いたいのだけれど、どうやって切り出したらいいのかわからなくて困っているようなお客様以外、敢えて僕からは何もお聞きはしないようにしています。それに、誰かの過去を知る、誰かの苦しみや悲しみを知ると言うのは、聞く方にも相談される方にもそれなりの責任が生じてくるものです。ですから、たかだか一介の珈琲屋の店主である僕が出来る事は、珈琲の次いでにぽろっと洩れたお客様の言葉を僕なりに受け止めるだけなのでした。
つまりは、珈琲を美味しく味わって頂ける為の多少のエッセンスなら致し方ないと言ったところでしょうか。暑さのせいか、今日は遠回り的な言い方が多いですね。
老紳士の前にクリームコロッケカレー少なめをお出しすると、カレーの芳香が老紳士の鼻腔から脳細胞に刺激を与えたらしく、ようやくこちらの世界に戻っていらっしゃって、いつものようににっこりと品の良い笑顔で「ありがとう。頂きます」と仰られました。
常連のお一人、この老紳士もかれこれ僕が店を開け始めて丁度1年経つか経たないかくらいからちょくちょく水曜日に店に通って頂いているのですが、思えば他の常連、渡部さんやシゲさん達のように、くだけたような話をした事はあまりありませんでした。老人用マンションに住んでいらっしゃるという事と、とても律儀な方であるという事以外は上品なお客様としてしか認識のなかった方です。ところが、先程、珍しくぽつりと零してられた言葉から何か思う所がありそうな感じです。
いつものように、ゆっくりと丁寧にカレーを召し上がる老紳士を横目で見遣りながら、僕は訊ねた方がいいかどうかと少し思案しました。けれどそんな僕の余計な迷い等お見通しと言った風にその方は米粒一粒も残さず上品に食べ終わると、再び口を開いたのです。
「・・・今日は、昔お付き合いしていた女性とお別れした日なんです」
「そうだったんですね。そうとも知らずに、大変失礼を致しました」
けれど、老紳士はその笑みを崩そうとはせず、ただ優しく続けられました。
「いいんですよ。もう終わったことですから。私と別れたすぐ後に、結婚しました。彼女から最後にもらった言葉が、嘘つきでした」
「嘘つき・・・ですか」
老紳士は軽く頷くと、一区切りしてアイスコーヒーを一口飲みました。グラスの中の丸い氷が涼し気な音を立てて微かに互いにぶつかり合いました。
「私は、彼女の事を誰よりも大切にしていたつもりだったのですが、どうやら、それは私の手前勝手な妄想に過ぎなかったようです。彼女には、何もかもがお見通しだったのです」
「私、曇りの日って好きよ。一番好き。晴れの日なんかより数倍、何かドラマが始まる予感がするから」
若い彼女はそう言って、まるで太陽のように眩しく笑いました。太陽が出ている清々しい晴れが好きじゃないと言っていたくせに。そうじゃないか。彼女が太陽みたいだから、太陽は二つはいらないって事なのかもしれないなと私は漠然と思って、彼女の手を握りました。
「だから君は曇りが多い冬が好きなんだな。でも、ドラマって、例えばどんな?」
「例えば、突然素敵な事が起こったり。素敵な人に出会ったりとか、かしら」
彼女は肩までの黒い髪を緩やかに揺らして白くなり始めた息を吐いて深呼吸をしながら、冷たくなり始めた秋の空気を頰に孕んで気持ち良さそうにそう返しました。
「素敵な事って、例えばどんな事?」
俄に老紳士はそう言って、困ったように少し小首を傾けながら微かに微笑みました。
窓硝子から差し込んでくる痛い程の夏の日差しの強さのコントラストで、室内全体の明度がやけに落ちたように沈み込み、そのせいなのか、細かい水滴がグラスの表面を静かに覆い始めたアイスコーヒーを傍らに置いて両手を組み合わせ、これ以上は何も言う事等ないとばかりに口を閉じた老紳士がまるで実体のない残像のように見えました。紳士の被ってきたカンカン帽だけが、やけにぼんやりと白く浮き上がるようにして視界の隅にチラつきます。
僕は取り分けたカレーの小鍋を弱火で引き続き揺すりながら、老紳士が再び話し始めるまで黙っていました。当店自慢の煮込んだカレーの表面には、まだなにも変化はなく、カレーも老紳士もそのまま時が止まってしまったんじゃないかと思うくらいの、まるで白木蓮の花弁が一枚一枚落ちて行くようなそんな厳かな静けさでした。
遠くから蝉が今を盛りに鳴いているのが聞こえてきます。最初は寄せて来る波のように力強く長く、途中から耳鳴りかと思うくらいの音量でフレーズが短めに、一息つく前は気のせいだったのかと思う程控え目に溶けるようにしていつのまにか鳴きやんでは又繰り返す。その心地好い音波の波は、聞いている者を眠りに誘う効果があると僕は常々思っていました。いえ。夏自体が暑くて意識が朦朧とする為なのか、それとも暑さに体力を消耗しない為に温存しておこうという体の機能なのか何なのか、ぼんやりと眠くなってくるのです。なので、僕は休みの日には必ず昼寝をします。何やら沖縄等の暑い地域に住んで方々は、涼しい早朝から午前中にかけて仕事をして、昼ご飯を食べたら、一日のうちで一番暑い盛りの時刻には昼寝が当たり前だとか。本当でしたら、僕も店を開けていても、昼過ぎから閉めて昼寝をしたいところなのですが、生憎、時間がお金変換になる都会ではそうはいきません。仕方なく、なるべく蝉の声に聞き入る隙を作らないように、眠さを思い出さないように忙しくして過ごす事にしています。例えば、トマトソースを丹念に仕込んだり、時間をかけてチーズケーキを作ったり、料理書を捲ってメニューを考案したり、壊れてしまった珈琲ミルを分解して素人の修理を試みたり、お気に入りの音楽をかけて踊り狂ってみたり。どれもこれもお客様がいらっしゃらないが故に出来る事ですね。つまりは最近、いえ、夏に入ってから頻繁に、お盆を挟んでいるせいなのか、お店が比較的暇だと言いたいのでした。
そうこうしているうちに、小鍋の中のカレーが簡単な噴火する前の溶岩の如く、ふつふつと小さな呟きを漏らし始めました。それを見計らって、僕は用意したお皿にこじんまりとしたご飯の山を盛りつけました。
老紳士は、やはりさっきと同じ姿勢で、両手を組んだ辺りをぼんやりと見つめながら、いつもの穏やかな笑みを口角に張り付かせたまま、物思いに耽っていらっしゃいました。その細く開かれた優し気な目に何が映っているのかは、僕には推測も出来ませんが、人は生きているうちに様々な事を経験します。最大の喜びや苦しみや悲しみや幸せ等です。長く生きていればいる程それが多くも長くもなってくるでしょう。今、目の前に腰掛けていらっしゃる老紳士が、ここまでの過程にどんな事を味わっていらっしゃったのかは、わからないですし、わからないのが部と言うものです。余計な詮索は野暮な事。
例えば、もし辛過ぎる過去を抱えていらっしゃって誰かに聞いてもらいたい、心情を理解して欲しいと言う願いをお持ちでしたら、自ずと誰かに話すでしょうし、逆も然り。なので、何かを言いたいのだけれど、どうやって切り出したらいいのかわからなくて困っているようなお客様以外、敢えて僕からは何もお聞きはしないようにしています。それに、誰かの過去を知る、誰かの苦しみや悲しみを知ると言うのは、聞く方にも相談される方にもそれなりの責任が生じてくるものです。ですから、たかだか一介の珈琲屋の店主である僕が出来る事は、珈琲の次いでにぽろっと洩れたお客様の言葉を僕なりに受け止めるだけなのでした。
つまりは、珈琲を美味しく味わって頂ける為の多少のエッセンスなら致し方ないと言ったところでしょうか。暑さのせいか、今日は遠回り的な言い方が多いですね。
老紳士の前にクリームコロッケカレー少なめをお出しすると、カレーの芳香が老紳士の鼻腔から脳細胞に刺激を与えたらしく、ようやくこちらの世界に戻っていらっしゃって、いつものようににっこりと品の良い笑顔で「ありがとう。頂きます」と仰られました。
常連のお一人、この老紳士もかれこれ僕が店を開け始めて丁度1年経つか経たないかくらいからちょくちょく水曜日に店に通って頂いているのですが、思えば他の常連、渡部さんやシゲさん達のように、くだけたような話をした事はあまりありませんでした。老人用マンションに住んでいらっしゃるという事と、とても律儀な方であるという事以外は上品なお客様としてしか認識のなかった方です。ところが、先程、珍しくぽつりと零してられた言葉から何か思う所がありそうな感じです。
いつものように、ゆっくりと丁寧にカレーを召し上がる老紳士を横目で見遣りながら、僕は訊ねた方がいいかどうかと少し思案しました。けれどそんな僕の余計な迷い等お見通しと言った風にその方は米粒一粒も残さず上品に食べ終わると、再び口を開いたのです。
「・・・今日は、昔お付き合いしていた女性とお別れした日なんです」
「そうだったんですね。そうとも知らずに、大変失礼を致しました」
けれど、老紳士はその笑みを崩そうとはせず、ただ優しく続けられました。
「いいんですよ。もう終わったことですから。私と別れたすぐ後に、結婚しました。彼女から最後にもらった言葉が、嘘つきでした」
「嘘つき・・・ですか」
老紳士は軽く頷くと、一区切りしてアイスコーヒーを一口飲みました。グラスの中の丸い氷が涼し気な音を立てて微かに互いにぶつかり合いました。
「私は、彼女の事を誰よりも大切にしていたつもりだったのですが、どうやら、それは私の手前勝手な妄想に過ぎなかったようです。彼女には、何もかもがお見通しだったのです」
「私、曇りの日って好きよ。一番好き。晴れの日なんかより数倍、何かドラマが始まる予感がするから」
若い彼女はそう言って、まるで太陽のように眩しく笑いました。太陽が出ている清々しい晴れが好きじゃないと言っていたくせに。そうじゃないか。彼女が太陽みたいだから、太陽は二つはいらないって事なのかもしれないなと私は漠然と思って、彼女の手を握りました。
「だから君は曇りが多い冬が好きなんだな。でも、ドラマって、例えばどんな?」
「例えば、突然素敵な事が起こったり。素敵な人に出会ったりとか、かしら」
彼女は肩までの黒い髪を緩やかに揺らして白くなり始めた息を吐いて深呼吸をしながら、冷たくなり始めた秋の空気を頰に孕んで気持ち良さそうにそう返しました。
「素敵な事って、例えばどんな事?」