魔性の女
生真面目な若い学生が身分不相応なクラブを通いつめた。一か月間、通い続けた日のことだった。見知らぬ初老の男から話しかけられた。
「君は学生かい?」
「ええ」
「ここのところ、君はよくこの店に来ているね?」
「いけませんか?」
初老の男はあわてて否定した。
「そんなことはないさ。でも、よく金が続くね」
「アルバイトをしていますから」
「この店に来るために?」
学生は慌てた。「いや、そんなことは……」
うまく言葉にはならなかった。幼い頃から吃りの癖があった。普通に話す分にはあまり目立たないのだが、上がったりするとそれが顕著に表われる。
「隠すことはないんだよ。ところで、君も目当ては京子ちゃんだね?」
彼は答えない。答えることができなかったのである。だが、恥ずかしさのあまり顔から火が出る思いを感じていた。京子が近くで聞いている。三年前からこの店でホステスをしている。
「あら? そうなの、嬉しいわ」と言って彼女は隣に座った。
その時、わざとらしく学生にぴったりと体をくっつけるようにして座った。何かしら意味があるような視線を向けが、彼はまだ幼くてその意味が理解できずうつむいてしまった。
「京子ちゃんに惚れちゃいけないよ。魔性の女だ。いつの時代だって、本当の魔物はかわいい天使みたいな顔をして、男を食うんだ。だから、釈迦は女を避けるために出家して山にこもった。孔子は“子供と女は扱い難い”といって遠ざけた。分かるかい?」
「そんなことはないわ。いつだって、女は弱いのよ。弱いからときに嘘をつかざるを得ないのよ。それを逆手にとるなんて卑怯よ」と京子は怒った。
「あなたはそんなことは言わないわよね」とそっと頭を学生の胸に寄せた。彼は軽い重みを胸に感じた。それが実に心地よかった。
京子が眠ったように目を閉じると、学生はそっと顔を近づけた。甘い匂いがした。いつもいい匂いがしたが、その日は特にほんのりとした甘い香りがした。それが香水なのか、それとも体から発する匂いなのか、それが分からなかったが、何か切なくなるような、胸を締め付けるような甘い匂いがした。その匂いに浸っていると、京子がゆっくりと目を開けると、学生はあわてて離れた。
「今夜、とても寂しいの。ずっと付き合ってくれる」
学生はその一言で今までの自分を越える決意をした。未知の世界への不安と憧れを抱きながら。
二人で店を出たとき、外は雪だった。白い雪が外灯に照らされきらきらと光っていた。
「雪ってきれいね」
ほろ酔い気分の京子は子供のような笑みを浮かべた。それが始まりの合図だった。天使の甘い囁きのような声で、
「わたしの部屋に来る?」
学生は酔っていた。思わず力任せに抱きしめた。
「痛いわ……そんなに強くしちゃ」と悪戯っぽい目で学生を見た。
街の真ん中にある洒落たマンションの五階に京子の部屋はあった。
部屋に入ると、京子はベランダの戸を開けた。冬の冷たい風雪崩れ込んできた。酔ってほてった体には心地よかった。 眼下には外灯で彩られた夜景がある。
「夜景がきれいだね」
「そうね、でも…」と言いかけて京子は口篭もった。
「でも?」
「何でもないの」
学生は京子の背後にまわり抱きしめた。そして、うなじを、耳を、唇をくちづけた。
「くすぐったいわ」と笑みを浮かべた。それがいっそう学生の欲望の炎に油を注いだ。
「だめよ、明かりを消さなきゃ」
窓を閉め、カーテンを閉め、明かりを消した。部屋の中は微かに明るい。薄明りの中で京子は謎めいた笑みを浮かべている。まるで誘うような。学生の中にある原始的な欲望の炎は嫌がおうにも激しく燃えあがった。
京子をベッドに押し倒し、その服を剥ぎ取ると、花のような鮮やかなピンク色の下着があらわとなる。豊かな乳房が今にもはじけそうであった。
乳房に手をやった。何とも名状しがたい柔らかくて、それが幻ではないかと思いさらに強く確かめように瞬間、学生の手に京子は手を重ねた。
「あわてないで、時間は逃げていかないわ」と微笑んだ。
京子は自分で下着を取った。学生も服を脱いだ。お互いに相手を見た。顔を見合わせ、笑った。しばらくして、二人とも黙った。全てが沈黙の中にあった。時間が止まった。
カーテンの隙間から零れてくる月の光の微かな光が京子の肩に射した。その光を浴びて、裸体は光輝いた。
「きれいだ」と学生は思わず嘆息を漏らした。京子はくすっと笑った。謎めいた不思議な微笑みである。
学生はまだ女というものをよく知らなかった。雑誌に載っているヌード写真でしか知らなかった。しかし、目の前にいるのは、紛れもなく生きて呼吸する女という存在。胸の震えが止まらなかった。それを見透かれまいとして、わざと無表情を装った。いや、少なくともそんな風に装ったつもりでいた。
「あなたは初めて?」と京子は呟くように囁いた。
一瞬、学生は耳を疑った。
「どうして、そんなことを聞く?」
「何でもないの。今日の京子は少し変なの」
学生はどうしていいのか分からなくなった。その時、京子は学生の手を取り豊かな乳房にやった。
「私は沖縄で暮らしたことがあるの。沖縄ではその昔、好きな男ができると女の一番大切のところを男の手を取って触らせるの。どこだか分かる?」
そんなことはどうでもよかった。欲望を抑えきれず京子の乳房をただ揉んだ。京子の顔が少し歪んだ。京子はもう何も言わなかった。身を任せるかのように重心を学生に寄せた。
学生は京子の柔らかな重さを感じた。もう何も考えられなかった。ただ、ひとつになること、それが全てだった。
全てが終わった時、そのまま、二人とも裸体のままベッドに身を横たえた。 激しい疲労感に襲われたのと同時に甘い陶酔感が起こった。そして、そのまま眠りに就こうとうとうとした。どれだけの時間が経ったのか。
「寒いわね」と言って京子が学生に毛布をかけた。
しばらくして、「ねえ、いいこと、今日のことは一夜の夢よ」
「どうして?」と学生が身を乗り出して聞くと、
「どうして? そんなことも分からないの? こんなの続くはずがないでしょ」と京子は冷ややかに笑った。薄暗闇のはずなのに、学生にも、その冷笑がはっきりと分かった。