チャック
深夜二時、わたしは家を飛び出した。
パジャマ姿だったので、近くに掛けてあった制服を手探りで着た。階段をできるだけそっとおりたが、床が軋んで音を立てれば、心臓は皮膚を突き破り出てきそうだった。スニーカーをつっかけて、これまたできるだけそっと扉を閉めた。カチャンと堅い音は異常な程響き、思わず唾を飲み込んだ。心音の方が大きかった。深夜の家出など、わたしには縁の無いことだと思っていた。ドラマや漫画の中でしか知らなかった。
一時間前、ふと夜中に目が覚めた。夜の部屋は当然暗く、何も見えなかった。いつもの感覚を頼りに電気を点けた。何も見えなかった。スイッチを何度押しても、真っ暗だった。廊下や階段の電気は、両親に気付かれたくなかったので点けなかった。とにかく外に出たかった。
外に出ても、やはり何も見えなかった。嫌になって屈みこんで、てのひらを顔にあてた。すると、指先が金属に触れた。ちょうど目のあるはずの部分だった。睫毛あたりのラインを人差し指でなぞった。それは、まぎれもなくチャックだった。スライダーを引っ張ったが、開くことはなかった。口元が引き攣り、汗がこぼれた。
「なに、これ……」
手を前に突き出して、よろけながら歩いた。今朝、いや昨日の朝見た時は、確かここにこんなものがあった。必死に記憶に縋った。右の方からくすくすと笑い声が聞こえた。わたしのことを笑ったのかは分からないが、怖い。喉が渇いた。かひゅ、と近くで聞こえた。自分の呼吸の音だった。
突然、誰かに肩を掴まれた。手らしきものが腕を滑り、手を握られた。背中を汗が伝った。
「誰……助けて、離してください」
なぜだか段々、声が大きくなった。うなり声を上げてうずくまりたくなった。
「チャック」
ハスキーな女性の声だった。てっきり男だと思っていたが、あらためて思えば手の感触は女性のものだ。……いや、最近男性と手を握ったことはないです、はい。
「チャック、ついてる」
臓器が冷えた。一瞬呼吸を忘れた。自分が奇異な存在になってしまったかと思うと、怖くてたまらなかった。それはきっとハンディキャップを持つ人々に対して、恐ろしく失礼な考えなのだとちらりと思った。そんな自分が気持ち悪かった。
「大丈夫。あたしもチャック、ついてる」
言葉にならなかった。わたしはおかしくないと思えた。単純な女だと思った。
彼女は何も言わずに手を引いて歩きだした。わたしも何も言わなかった。言えなかった。
「ここ、段差があるから」
もう感覚に頼ろうという気はしなかった。そもそも自分がどこにいるのか、さっぱりわからなくなった。随分長く歩いた気がした。
「ここ、座って大丈夫」
恐る恐る膝を曲げた。傍から見れば恐ろしく不格好だったろう。
「何か、嫌なものでも見たの?」
「……え」
突然切り出された気がしたが、わたしが見えないせいなのだろう……多分。
「だって、チャックついてるから。見たくなかったんでしょ?」
見たくなかったものって、なんだろう。それすらもわからない。
「わからない」
隣で空気が少し揺れた。
「へえ、そんなもの? その程度?」
「何よその程度って……じゃあ、あなたはなんでチャックが付いてるの?」
救世主にも思えた女性に苛立った。それを言葉でぶつけてから、挑発に乗せられたことに気が付いた。表情が見えなくて不安になった。含み笑いや間が怖かった。
「内緒よ、内緒」
「あなたって案外意地悪ね」
「そう? ……そう」
うふふ、と笑い声が聞こえた。かなり耳元だった気がした。顔の位置は思っていたより近いようだ。
「あなたのチャックを開こうと思うの。これ、自分では開かないの。面白いでしょ」
「……あ、あなたにもチャック、ついてるんでしょう? わたしが取ってあげた方がいいの?」
「それはだめ。あたしのチャックを取って欲しいのは、別の人よ」
「ふうん」
正直なところ、そんなに興味はなかった。流れで訊いただけだった。
いつの間にか、敬語を使っていない自分に気が付いた。
「いくよ」
ジジジ……ガッ、ジジ――……
自分の力ではどうにもならなかったそれは、いとも容易く開いていった。どこか悔しさがあった。
「それにね、あたしのはきっと、錆びちゃてるから」
「ふうん」
「すっごく大変だと思うし、何よりあたしがしてほしくないの」
感覚で分かった。もう右目のチャックは開いた。
「右目、あけてみて」
左目があかないから不格好だけれど、右目をあけた。登下校で歩きなれた土手にいた。無いよりはマシという程度の街灯が、いつもより強く自己主張していた。
隣を見る。染めたのであろう茶髪、膝より上のプリーツスカート、他校の制服。紫色のヘアピン、手入れされた脚の白色、細い首と肩。茶色がかった目の色。そんな少女がいた。第一印象は遊んでそう。それから浮かんだのは、垢ぬけてる、自分と正反対。
「見えた? イメージと違ったって顔してる」
ひひ、という感じで笑っていた。にっと上がった口角だとか、ちょっとつり目気味だとか、それだけだときつい印象だけど、彼女は愛されているのだと思った。
別に、自分が愛されていないとか、そういうことがあるわけではない。ただ、正反対だと思ったのに、何もかも違うわけではないのだと、そう思っただけ。
肩までの黒髪、手入れしていない眉、社会のルールに何も反していないはずの自分が笑っていなくて、それがおかしくて、笑ってしまった。
「あ、笑ったあ」
「……へへ」
「左目も開けて、また笑お」
「うん」
彼女はわたしの左目のスライダーに手をかけた。わたしはそっと、彼女の右手を両手で包んだ。彼女は何も言わなかった。わたしは右目をつむり、彼女の表情を見ることをやめた。
「いくよ」
「いこう」
ジジ……
静かな音はお腹の奥にストンと落ちた。だからわたしは告白する。
「なんか、わかった。わたしが見たくなかったのは、向かい合いたくなかったものは」
彼女の表情は、相変わらずわからない。けれど、確かにそこに彼女はいる。
「中身の無い、からっぽのわたしだった……と思う」
「……と、思うんだ」
「うん。断言できるくらいの自信は、まだないから」
「それでいい」
「でも、からっぽでよかった。あなたを吸収できた。あなたのこと、羨ましいって思った」
きっと星は綺麗だ。さっきは彼女に目がいったけど、瞼を持ち上げ見てみよう。わたしは顎を上げる。
「目、あけてみて」
両目で見る世界は、昨日見た世界と何も変わらなかった。空は曇っていた。
「……これくらいで、ちょうどいい」
「何が?」
「内緒よ、内緒」
「あなたって案外意地悪ね」
ふたりで笑った。
「あなたのチャックは、どこについてるの?」
「……内緒よ、内緒」
「そう」
わたし達は、秘密をあかしあうような間柄ではない。彼女のチャックは塞がっている。いや、もしかするとそのチャックも、彼女の嘘かもしれない。わたしと彼女は、ただの、一夜限りのにたものどうし。
「夜が明ける前に、帰ったら?」
「そうする。今日はありがとう」
彼女は手を振ってくれた。わたしも手を振り返した。