恋の始まる瞬間
芙由子はかじかむ手に息を吹きかけながら志木に微笑んだ。
志木は、リサーチモニターの派遣会社を立ち上げ3年目を迎えた。
とはいえ、まだ少人数で実績も浅い会社だ。
新しいリサーチの場所や品を自ら探しに出かけたり、企業からの依頼を受けるために
営業に出かけたりと事務所の椅子には腰掛けてばかりはいられない。
それに加えモニター登録者の管理も担当。
要は営業から事務、雑用に至るまで全てこなさなくてはならない。
(何やら暇なしというやつだ)
今日はショールームに立ち寄った。
ここは、会社を設立した早期に取引を始めたところ。
そこに勤める芙由子は、色白で笑うとかた頬にえくぼができる。
実は芙由子は、そのえくぼを気にして笑わなかった。
(と暫くして知った)
色白で目鼻立ちがはっきりしているせいか、さほど化粧をしなくても見劣りしない。
(笑えば、もっと魅力的だろうな)
そんな思いをいつしか志木は持つようになった。
その所為とは言わないが、訪れる回数が増えたのは志木自身、自覚がある。
「寒いね。今日は何を食べようか?」
「またぁ、志木さんは、行く先々でみんなにそう言って回っているんでしょう」と微笑む。
芙由子が微笑むようになったのは、志木とのあるきっかけからだ。
それは、昨年のクリスマスの一週前の夕暮れのこと。
クリスマスの飾りつけに営業時間後にショールームに居る芙由子を見かけた志木はガラス越しにその姿を見ていた。
ガラスに型紙を当てスノースプレーを吹き付けている芙由子が志木に気が付き、スプレー缶を持ったまま手を振った。
「志木さん」
声は聞こえるはずはないが口がそう語り、頭をさげた。
志木は、手振りで「そこへ行ってもいいか」と尋ねる。
「どうぞ」と仕草が返って来た。
志木は、綺麗に磨かれた入り口のガラスドアを押し開けた。
「こんばんは。クリスマスの準備ですか?大変だよね」
「そうですね。この一週間だけのことですから。でも嫌いじゃないですよ。こういうの」
芙由子の「嫌いじゃないですよ」という言葉が、自分に言われたように感じた。
全く勝手な思い込みである。
「私もですよ」
それは紛れもなく志木の気持ちのままの言葉だった。
今年もこの季節が来た。
クリスマスの飾りつけが終わったショールームに芙由子の姿を見つけた。
志木は、ガラス越しに軽く手を上げ、入り口のガラスドアを押し開けた。
「今日も寒いですね」
芙由子はかじかむ手に息を吹きかけながら志木に微笑んだ。
「仕事、今日も遅いの?」
「いいえ、今日はもうおしまいだと思います」
くすくすと笑い、芙由子の頬にえくぼができた。
「誰もこんな夜に見にきませんよ。志木さんくらいですよ。しかもお仕事」
「いや、私はもう仕事終了後です」
「あら?そう」
頬にえくぼを残したまま志木を見た。
「メリークリスマス。デートの誘いです。いかがですか?」
芙由子は、店内に飾られたクリスマスツリーの飾りをひとつ外して差し出した。
「コレが馬車に変わったらね」
志木は、それを受け取ると上着のポケットに入れるとポンポンと叩いた。
「はい。外に待たせてありますよ」
車のキーを芙由子の前に差し出した。
ふたりの姿がイルミネーションの街に溶け込んでいくまでに時間は掛からない。
― 了 ―