知らない夜
「だって、絶対ありえないことが起きたんだよ!」
大停電がか? と半ば呆れたぼやきも、娘にはさっぱり聞こえていないようだった。妹の手を引っ張り、もう片方の手に持った懐中電灯で足元を照らしながら、姉妹は玄関を開けて庭に出た。
まさか子どもだけ外に出しておくわけにもいかないので、自分もしぶしぶ続く。子どもは風の子と言うが、大人にはこの冷え込みは堪えるのだ。真っ暗でなせいでわからないが、今吐いた息は真っ白なんだろう。寒さすら楽しかったはずなのに、いつの間に嫌うようになったのか。
二人の娘は、空を見上げていた。姉は笑顔で、妹はぽかんと口を開けて。そこまで鮮明に見えていることを不思議に思う前に、私は二人と同じように、夜空を仰いだ。
月並みな言葉だが、美しいと思った。本当の夜はこんなにも暗いのだと、昼間あんなことがなければ気づけなかった。そんな闇を、街灯よりも強く、やわらかく照らしあげるのは、意外なことに月ではなかったのだ。
「こりゃ……すごいな」
そうでしょ、と自慢げな娘の相づちはしっかり耳に届いていたが、意味まで理解するのに時間を要した。理解しようと意気込む必要もないはずの、短すぎる言葉なのにだ。そのぐらい、私はこの果てのない天井に釘付けになっていた。
「すごいねー。ぷらねたりゅーむみたい」
家族で一番年少の、舌足らずな声。いつもなら、幼さゆえの自由奔放な発想を口にするばかりで、あまりの突飛さに呆れを含んだ感心をしてしまう程度なのに、今回だけは心底同意した。姉妹にせがまれ遊びに行った天文台。そこで見た、普段なら隠されている夜空が姿を現していたのだから。
娘が言った絶対ありえないことというのは、天文台の職員の説明だ。
――もし、この街の電気がぜんぶ消えたら、こんな夜空が見れます。
そう言うと、壁際で輝いてた夜景が徐々に薄れ、黒くなる。数少ない大振りの星々のあいだ、広すぎる暗黒に、小さな星が浮かび上がってくる。そうして、文字通り満点の星空が完成するのだ。お偉いさんが中心になった企画でもない限り、現代では確かにありえない。
私が娘達と同じ年頃だった時は、晴れてさえすれば毎晩こんな景色だったろう。曖昧なのは、実際にどうだったかほとんど忘れてしまったからだ。人が増え、家が増え、鉄道が通り、車が走る。何より自分が成長していくにつれ、空など見なくなってしまった。子どもが生まれ、どんな些細なことにも興味を持つ彼女らに影響されて、ふと思い出した夜に目をやった全天は、立ち並ぶ人の住処に追いやられ刺し貫かれ、ひからび縮こまってしまっていた。自分の中に残った、おぼろげな記憶の中の空など連想できないほど、変わり切った景色だった。
だが、空は変わってはいなかった。変わったのは私達のほうだ。私達が勝手に、本来の姿を捻じ曲げる土壌を作ってしまったのだ。これがその証拠だ。自然の瞬きを打ち消していた人工の灯がなりを潜めれば、元の光景が顔を覗かせる。
私の知らない夜が、そこにはあった。どんなに遅い時間でも感じることのなかった、沈黙する街並み。真の闇に呑まれた地上。そして、上空できらきらと輝くたくさんの星。
電気が復旧するまでまだまだ時間がかかるだろうが、今までの生活に戻れば、すぐにでもこの空とはお別れだ。だからだろうか。そんなことを思っている場合でないのは重々承知しているのに。私達の世界では、もっと重大で深刻な真実が、日を追うごとに明るみになっていくというのに。
私は、どうか一人でも多くの人々が、この夜に身を置いてくれてはいまいかと、願わずにいられなかった。