最後の私
このままでいったら、真夏という頃には、気温は何度の予想が出るのだろう。
私は、仕事を終えたが、まだ外は明るさが残っている。
少し前まで、日暮れの町を帰宅した私だったが、まだまだ寄り道でもしたい気分だ。
立ち寄ったのは飲食店。
夕食の食材を買おうかと思ったが、特に食べたいものも思いつかない。
まして、この暑い日に火の前に立って誰の為でもなく、自分だけの為に作るのは辛い。
いやもう残る食材など必要がない。
「何になさいますか?」
「えっと、このフライプレートセット。スープと飲み物はアイスミルクティで」
「パンかライスがお選びいただけますが」
「じゃあ、パンで。飲み物も一緒に持ってきてください」
食べる時間をゆっくり過ごしたかった私は、何度も運んできて頂く事を避けたかった。
しばらくして、運ばれてきた料理は、盛り付けも温度も程よい食欲をそそるものだ。
私は、ケースに入れられたフォークやナイフなどの中からスプーンを取りスープを飲んだ。
料理は箸を使った。パンは、手で千切ったり、スープに浸してかじりついたりした。
実に気ままな食べ方だ。
鞄の中の携帯電話が振動した気がした。
取っ手を小指で引っ掛け引き寄せる。指先を少ししゃぶって鞄のファスナーを開けた。
マナーモードにしてある携帯電話だったが、お知らせランプは点灯していなかった。
手帳が見えている。取り出して開いてみた。
今月にはあと二つ書き込みがあったが、翌月からは白いままだ。
もう書くこともない。
決めたこととはいえ、寂しい。
これまでは何だったのかと考えると、今日を迎えるための序章のような気もする。
これで私はなくなってしまうのだろうか。
そんなことさえ考えている自分に気付く。
手帳を閉じて鞄に放り込む。
それにしても、人の作るご飯は美味しい。
自分で作るのは味気なさのスパイスが入り過ぎていたのだろうか。
それももう明日からはないだろう。
プレートに美しく盛り付けてあった料理の跡を残さないように私は食べた。
まるで洗い立ての皿のように……あ、端についていたソースを残ったパンで片付けた。
「ごちそうさま」
小声で手を合わせ終えた。
これが『最後の晩餐』なのかと自分の中で納得と僅かな苦笑が浮かんだ。
身の回りを整え、精算票を持って会計へと向かう。
通路を通る時、小さな男の子と目が合った。
私が少し微笑んでみせると、男の子は照れくさそうにお父さんの背中に顔を半分隠した。
(その無邪気な瞳がいつか誰かをかえてしまうのね)
私は、会計を済ませると、店の扉を開けた。
まだ暑さに満ちた街を私は歩き出した。
このまま溶けていくような感覚さえする空気を感じながら、今日までの私も溶かしてゆく。
――さようなら。
そう呟きながら、家路を帰る。最後の私の体を休めに行く為に……。
そして
――おはよう。
今日、私は、嫁いでいきます。
生まれた名前を あの人の姓にかえて……。
― 了 ―