夕焼け
青い空は夕焼けに支配されようとしていた。ぼんやりとベランダでそれを眺め、肌寒いと思った。静かな風は尖っていた。
わたしは死にたいと呟いた。そして笑った。それは自殺願望ではなく、やらなければならないことをやりたくないだとか、恥ずかしくてたまらないとか、そういう意味だった。
微妙な色合いの空はゆるやかに動き、わたしの鳥肌を誘った。九月の夜。
わたしは思い出していた。
それは八月上旬のことだった。
真夏の太陽の光を浴びた女の子に出会った。女の子はわたしを見上げると、小さいと言って笑っていた。ちっぽけだと、あたしなんて、体から溢れそうなくらい大きいのにと。それから女の子は言った。
「あたし、もっともっと大きくなるの。おねえちゃんは小さいから、あたしの肩に乗せてあげる。もう言葉に乗り切らないくらい大きくなっちゃって、大変なの」
意味がわからなかった。
「そしたら、おねえちゃんのことを愛してあげる」
意味がわからなかった。
それは八月中旬のことだった。
暑さの盛りを過ぎた頃、またふらりと少女は現れた。麦わら帽子に膝丈のスカートを履いて、肩までしか無い髪を無理に結っていた。長いと面倒なの、でも他の女の子はみんな結んでるんだよ。そう言って笑っていた。楽しそうだった。
「おねえちゃん、髪の毛長いね。おめめ大きくってかわいい。あたしもそうなりたいなあ」
「なれるよ、きっと」
女の子は笑った。満面の笑みだった。
「でもおねえちゃんは小さいからなあ」
女の子は蝉を追いかけて、どこかへ消えた。
それは八月下旬のことだった。
夏の終わりを肌で感じていたら、またあの女の子が現れた。長袖の上着を羽織っていた。もう夏が終わっちゃうの。つまんない。女の子はそう言いながらも笑っていた。
「おねえちゃん、一回も笑ってないね。あたしのこと、嫌い?」
ほんの少し眉根を寄せて、口をとがらせ問いかけた。
「嫌いじゃないけど……あなた、名前はなんていうの?」
「教えない」
女の子の表情は、乾いていた。無表情だった。乾いた瞬きをした。
「おねえちゃん」
振り向くと、部屋の中に女の子がいた。部屋の中なのに帽子をかぶっている。
「本当は、あたしが誰か、わかってるんでしょ」
わたしは俯く。上を向く。そしてまた、俯く。
「……うん」
目を見ろと、目を見て話せと気配が訴える。わたしはまっすぐ、女の子を見つめる。
「あなたは、昔のわたし。ふふ、面白くないオチね」
「そのくせ笑ってるよ」
「……ほんと、おかしいわ」
女の子は、ベランダの方に歩いてきた。ベランダに入ろうとはしなかった。窓のサッシをはさんで、わたし達は向き合う。
「あたしが消えたら、後ろを見てよ。大切なものを失ってるよ」
「うん」
「最後にさ、『あたし』って言ってみてよ」
息を吸う、吐く。そしてまた、息を吸う。その息は音を乗せて空気を揺らす。
「あたし」
懐かしい、おかあさんのカレーの香りがした。
「わたし、あなたに会えてよかった」
狭いワンルーム。あのころおかあさんは専業主婦だった。
「うん。ありがとう。来てよかった。ばいばい」
女の子は、消えた。
振り返って空を見ると、もう暗くなっていた。夕焼けを見逃してしまった。時間はまき戻らない。
おかあさんに電話をした。
「今日のご飯、どうするの」
「ごめんなさい、仕事で帰れそうにないの。適当に食べて頂戴。おかあさんは外で食べるわ」
「うん」
カレーの香りが、わたしを包む。