永遠の音楽
ピアノは卒業して以来、ほとんど弾いていなかった。自宅にあるアップライトピアノは、昭和二十年五月の空襲の際に水を被って放置され、戦争が終わって修理に出す頃には中をすっかり交換しなければならないほど、ひどい状態になっていた。経済的余裕のない時期、全面的な修理も買い替えも諦め、在学中は校内のピアノで凌いだ。教職についた後は独奏用に練習する必要もなくなり、ピアノは授業で子供達を歌わせるために教室で弾く以外、触れることはなくなった。
答えられずにいることが答えとなり、尚さんは理解したようで、それ以上は私のピアノについて云々することはなかった。
会話は続かない。戦場やシベリアの収容所のことを尚さんに聞くのは憚られた。会わなかった七年には、二人にとって楽しい思い出はない。内地にいた私でさえ思い出したくない日々だ。異国の戦場で苦労した尚さんにとっては尚更で、おのずと互いの口は重くなる。
そしてあの二人のことは真之君達との約束通り、私からは触れなかった。名前が出たのは尚さんが口にしたあの一度きり。二人のことを話題にしない不自然さに、きっと尚さんは気づいている。
「尚さん、疲れたんじゃあないかい?」
尚さんの目の下に、色濃く隈が浮かび始めた。それほど時間は経っていなかったが、やはりまだ身体の調子はよくないのだ。
「大丈夫だ。でも、失礼して横にならせてもらうよ」
そう言うより早く、尚さんは身体をベッドに横たえた。薄い夏用の上掛けを肩まで引き上げるのを手伝った。尚さんは本当に細く小さくなってしまって、痛々しいほどだ。
「今日はもうこれで帰るよ。また見舞いに来てもいいかな?」
「もちろん。でも胸も思ったほど重くないようだし、しばらくしたらここを出られるらしいから、それからでも良いんだぞ?」
「また来るよ」
彼の腕に軽く触れた。手のひらには骨ばった感触。これでマシになったと言うのなら、帰り着いた時はどれほど酷い状態だったのか。
腕から離れようとした私の手首を、尚さんのもう一方の手が掴んだ。終始穏やかだった彼の目は、間近の私を鋭く見つめる。その目が語るものを、私は読み取った。聞かないで欲しいと思ったことを、ついに尚さんが口にした。
「信乃と容子はどうしている?」
私を見つめる尚さんから目を逸らすことが出来ず沈黙した。
『信乃さんは行方が知れず、尚さん同様、どこかの収容所にいるのかも知れない』
『容子さんは岡山の実家に帰ったまま、東京には戻っていない』
打ち合わせた「彼らのいない理由」――それを言えば済むことなのに、私は表情を取り繕うことが出来なかった。自分の心臓の音が、身体中に響き渡る。呼応して脈が速くなっていた。手首から尚さんにも伝わっているはずだ。
「死んだのか?」
尚さんの手に力が入る。
「尚さん」
「死んだんだな?」
――だめだ。
耐え切れなくなって目を伏せた。途端、尚さんの手の力は抜け、私の手首を離した。
立ちすくんで凝視する私に、尚さんは笑んだ。儚い、消え入ってしまいそうなほどに儚い笑みだった。それから「気をつけて帰れよ」と言うと、私から視線を外し、上を向いて目を閉じた。
病室を出る時に尚さんを振り返って見た。彼は目を閉じたまま、動かなかった。