永遠の音楽
(十)
尚さんの消息は一向に知れなかった。休学届けが取り下げられることはなく、学籍はそのまま残っている。尚さんの家族はやはり三月の空襲で亡くなっていたが、彼の伯父と言う人が後見人になるらしく、学校に私を訪ねて来た。尚さんが帰って来て、家が焼けて家族がいないことを知り、学校もしくは私のところを訪ねて来た時には連絡が欲しいと、住所を教えてくれた。他の学友のところも訪ねているらしく、親しい友人を知っていたら教えて欲しいと乞われたが、知らないと答えた。信乃さんの名前が頭を掠める。痛みが胸に広がった。
東南アジアや停戦直前の中ソ国境では激しい戦闘があり、犠牲者数は定かでない。所属部隊が機能不全に陥ると、都度に再編され、最終的にどこに所属しているかわからない状態の兵士も多かった。戦死したものとして公報が届けられ、遺骨の代わりに遺品を骨壷に入れて葬儀を済ませた後で、本人が帰還した例もあったので、尚さんの親族としては公報が来ても来なくとも、諦めきれない様子だった。
私も勿論、生きて帰ってくることを願って止まなかった。最後に四人で過ごした日、尚さんは力強く「必ず戻ってくる」と言った。それは生死に関係なくだと思っている。形を残さないまま消えてしまう尚さんではない。
そんな折の昭和二十年十一月、日本兵が多数、ソ連のシベリアに抑留されているらしいことがわかり、翌年の五月から日本はアメリカを仲介としてソ連と引渡し交渉に入った。それまで消息の知れない者のいる家族は、一縷の望みを繋ぐ。私もその中の一人だった。
――もしかしたら、尚さんもその中にいるかも知れない。
尚さんは大陸に出兵していたし、可能性は高い。抑留者の数が夥しい上に、ソ連とは終戦直前に国交を断絶していたので氏名他を掌握するのは難しく、ますます希望を持たせた。
昭和二十一年の暮れにようやく合意がなされ、捕虜の引渡しが決定。翌二十二年から抑留者を乗せた引き揚げ船が、順次、舞鶴港に入港し始めた。
「尚さんは生きている。帰ってくるよね、信乃さん、容子さん?」
遺影代わりに二人の手紙を仏壇に供え、毎日、尚さんの帰りを祈っていた。
抑留者の帰還が始まって一年経ち、二年経ちしても、尚さんは帰ってこなかった。引き揚げ船の舞鶴港入港予定が発表されるたびに、彼の親族は希望を持ったが、関係部局からの連絡はなく、落胆する日々が続く。
私は音楽学校を昭和二十三年の春に卒業し、新しく施行された学校教育法による中学校の音楽教師となった。尚さんが高く評価してくれたピアノの腕は、演奏家として大成するに至らなかった。もともとソリストを目指していたわけではなかったし、徴兵と事故後の療養、歩行訓練時や空襲退避時の転倒等による負傷などで生じたブランクを埋める気力が残っていなかったのである。加えて、思い出の中でしか聴くことの出来なくなった『彼らの音』が私の孤独感を募らせ、音楽への情熱を冷やしてしまった。
尚さんが戻ってきたなら、さぞかし私を叱るだろう。そう、戻ってきたなら。
尚さんの帰りを信じていた。しかしいつしか、信じる心から解放されたいと願うようにもなっていた。だんだんと諦めるきっかけを探していたような気さえする。
生徒達と向き合う日々は、教師として勉強しなければならないことが多く気を紛らわせてくれたが、それでも新たな引き揚げ船のニュースが、私の期待を煽り、そして落胆の底へ引き戻した。
何か証が欲しかった。たとえそれが負の結果だとしても、受け入れる覚悟は出来ていた。
そしてついに願い通り、解放される日が来たのである。
昭和二十五年(一九五〇年)三月、尚さんの生存がシベリアで確認されたのだった。知らせてくれたのは、彼の五つ下の従弟、真之君で、わざわざ勤め先の中学校に足を運んでくれた。一人っ子の彼は尚さんを兄のように慕っていて、以前、私達が音楽学校の学生だった時に一、二度、顔を合わせたことがある。尚さんのことで連絡を取り合ううちに、私と真之君はずい分親しくなっていた。
「尚さんが?!」
「はい、やっぱり抑留されていたんです。尚兄さんから手紙が来て、役所からも 次の引き揚げ船の名簿に載っていると連絡が来ました」
「生きていたんだね、やっぱり生きていたんだ」
真之君は「はい」と答えて、目を潤ませた。尚さんが出征した時、彼はまだ旧制中学に入ったばかりだったと思う。ひょろひょろと背が高いだけであどけなかったが、大学卒業を間近の春に控え、体格もすっかり立派になり、あの頃の尚さんによく似ている。彼を見ると隔世の感が否めず、どれほど長い年月、尚さんと会っていなかったかを実感した。きっと尚さんも真之君の成長に驚くことだろう。
尚さんが帰ってくる報は、私がそれまで生きてきた中で一番の吉報であった。同時に、新たな現実も私に突きつける。
長い抑留に耐えた尚さんを待つのは、家族と彼の親友と愛した人の死なのだ。
そして後者二人の死を告げる役目は、私を置いていなかった。