彼のひげ剃り。
卵をフライパンに落とすと、彼は音と匂いで目を覚ましたのか、顔を洗いに洗面所に向かう。
私はテーブルに朝食を並べながら、彼の背中を眺める。
この時だけは、デザイナーズマンションに住んでいて良かったと思う。
無駄な柱のない部屋は見通しが良く、彼がヒゲを剃っているところが鏡越しに見えるからだ。
彼は丁寧にヒゲを剃る。
私は彼の綺麗に手入れされた肌が好きだった。
けれどそれは、私の為ではなく、他の誰かの為であるということも知っていた。
一緒に朝を迎えなければ見ることのできない光景を、私は少し寂しい気持ちで眺めながら、椅子に腰掛けため息をつく。
その姿は、余りに無防備で、抱きしめたくなるほど愛おしいからだ。
鏡の中の彼の左手には、私の知らない彼女との指輪がはめられている。
最初は気を利かせてか、会う時は指輪を外していた彼だったが、時間が経つにつれて、彼は指輪を外さなくなった。
私にとって、それは嬉しいことだった。
非日常から日常へと、彼の中で私の存在が受け入れられた証明だからだ。
朝食を採りながら、彼は彼女の話をする。
大半は愚痴なのだが、時に誉めることもある。
私は嫉妬ではなく、悔しい気持ちが目から零れそうになるが、彼の屈託のない笑顔が、それを払拭する。
そして、彼女の知らない彼を、私は知っているという優越感を噛み締める。
けれどそれは、勝利故の優越感ではなく、敗北からくる優越感であり、私は惨めな気持ちを隠すために、小さな優越感を噛み締めるのだ。
もっと言えば、それはきっと優越感という気持ちでは無いのだろう。
彼は誰が作っても大差ない、目玉焼きとトーストを、美味しいと言いながら綺麗に完食すると、ワイシャツに袖を通してネクタイを締める。
そして、私のおでこにキスをすると、玄関のドアを開ける。
「寂しくなったら、いつでも連絡してね。直ぐに駆けつけるから。」
彼はいつもと同じ言葉を残して部屋を出る。
彼の言う「いつでも」は、「何時でも」ではない。
彼の言う「連絡」は「電話」ではない。
私は彼と、秘密の時間を共有しているという、小さな優越感を守る為に、迷惑をかけないように気を遣う。
そして、無理な笑顔を作ってみせると、手を振って彼を見送る。
彼は知らない。
私が寂しいと思うのは、誰もいない部屋で迎える夜ではなくて、彼が部屋から出ていった後に、朝食の後片付けをしている時間なのだ。
優越感が一気に消えていく瞬間。
それは、仕事に出かけるのを見送るのではなく、家に帰るのを見送った後にやってくる。
私は涙を目に溜めながら食器を洗う。
そして、テーブルを拭きながら洗面所を見ると、彼の置いていったヒゲ剃りがポツンと置かれていた。
私は「嘘つき。」と心の中で呟くと、「嘘つきは私の方か。」と呟き直した。
窓から射す光は、真っ白い部屋を余計に白くさせた。
私はその部屋に映る、一人分の影を見て、小さなため息を落とした。