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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~2

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その話からすれば、ソクチェは既に五十五になっているはずだ。しかし、頭髪は見事な銀髪になっているにも拘わらず、膚は色つやも良く若々しい。仙人を彷彿とさせるたっぷりとした眉と顎髭はソクチェの浮世離れした雰囲気を更に助長させていた。
「申し訳(ハンゴン)ござい(ハオ)ません(ニダ゜)」
 文龍は我に返り、慌てて詫びた。
 ソクチェが白い眉を下げる。
「いやいや、儂は何もそなたを責めているわけではない。ただ、聟どのがめでたいはずの日に何故、浮かぬ顔をしているのか気がかりになっておるのだ」
 今夜の訪問は、凛花との祝言の日取りをいよいよ正式に決めるためのものだ。本当なら昼間に訪ねるべきどころだが、義禁府の勤務が多忙で、なかなか時間が取れないのだ。
 既に祝言の日程は、ソクチェと文龍の話し合いでほぼ決まった。二人は、明年の春吉日に凛花が十八歳になるのを待っての祝言ということで一致している。
 ソクチェには文龍の物想いは心外に相違ない。一年前に正式に結納を交わして以来、やっと婚礼の日が決まったのだ。
 ソクチェは、凛花と文龍が互いに慕い合っているのを誰よりよく知っている。皇氏と申氏の両方の親戚にそれぞれ相次いで不幸が重なったため、なかなか華燭の実現に至らなかったのだが、来年になれば、晴れて喪が明ける。
 凛花は今頃、自室で文龍の訪れを今か今かと待ち侘びていることだろう。なのに、肝心の文龍がいつになく沈んでいるのをソクチェが不安に思うのも当然であった。
「そう申せば」
 ソクチェが自慢の顎髭を撫で、思い出すように言った。
「塞いでいるのは聟どのだけではないな。我が娘もどうも、ここ半月ばかり様子が妙でのう」
 その言葉に、文龍は弾かれたように面を上げた。
「凛花が?」
 それは初耳である。そこで、文龍は、はたと思い当たった。
 どうして、考えなかったのか。朴直善が婚約者である文龍にああまで堂々と凛花を奪うと宣言したのだ。当の凛花にも何かしらの接触―或いは脅しをかけていたとしても不思議ではない。
「凛花の様子に、何か気になることでもあるのですか?」
 文龍が何げなく訊ねると、ソクチェは頷いた。
「まあ、凛花のことは、後でそなたから訊ねてみてやってくれ。儂がとやかく言うより、そなたの方が凛花も素直に心を開くであろう」
 何も言わない文龍に、ソクチェが〝おや〟というような表情になる。
「もしかして、凛花と喧嘩でもしたのか?」
 そのような他愛ない問題であれば、どんなに気が楽なことか。しかし、今、状況を直截に告げても、ただ人の好いだけのソクチェを心配させるだけだ。
「まあ、夫婦喧嘩は犬も食わないと昔から申すから、喧嘩も仲の良い証拠だと思えば良い。若いときには、とかく意地を張りやいすものだが、時には素直になることも必要だ。いっときの度を越えた強情が取り返しのつかない―」
 何やら見当違いな説教が始まりそうになり、文龍は慌てて言った。
「義父上、凛花の様子が気になることでもあり、今宵はこれにて失礼致します」
 得意の長口舌を中断されたソクチェがやや不満そうに唸った。
「そ、それもそうだな。なかなか逢える時間がないと、昨夜も凛花が零しておった。全く、今時の若い者ときたら、独り身の父親の前で平然とのろけおって」
 まだぶつぶつと独りごちているソクチェを後に、文龍は頭を下げて辞去した。
 舅どのは滅法なお人好しだが、説教くさい大演説が得意で、しかも当人は、周囲の迷惑を顧みない。一度始めたら、何時間でも続くという傍迷惑な代物である。
 文龍は、この愛すべき舅に心からの敬愛を寄せている。常に沈着で何を考えている判らない底の知れぬ人物―と言われている実の父よりもはるかに近寄り易かった。
 まさに、義父と実父、対照的な二人であった。

 凛花は手にした貝殻からもうひと掬いだけ、紅を指に乗せる。鏡を覗き込みながら、慎重な手つきで唇に塗ってゆく。
 おかしい、どこかが違う。
 凛花は小首を傾げ、もう一度、鏡を覗く。更に布で白粉(おしろい)を重ねづけしてみた。
「ああ、これでは顔が真っ白。まるでお化けだわ」
 凛花が悲鳴のような声を上げる。
「それに、紅も濃すぎるみたい。真っ赤な口をしていたら、文龍さまが変だとお思いになるに決まっている。これでは、人を喰らったばかりの鬼ではないの」
 紅も白粉も足さなければ良かった。
 紅の入った美しく彩色された貝殻を放り出し、凛花は投げやりに言った。
 傍らで、ずっと凛花の一人相撲を見守っているナヨンは笑いを噛み殺していた。
「ねえ、ナヨン。どこか、おかしいところはない?」
 思案に暮れた末、ナヨンに問うと、乳姉妹は妙な表情で頷いた。
「とてもお美しいですわ。お嬢さま」
 そのひと言に勇気づけられ、凛花は再び鏡と向かい合う。
 鏡に映じているのは、臈長けた美少女なのだが、当の凛花としては全く満足できない仕上がりである。
「ううん、駄目。やっぱり、この首飾りが服に合わないのではないかしら」
 凛花が今、身につけているのは母の形見であった。顔も知らぬ母が残してくれたこの品を凛花は殊の外、大切にしている。普段は螺鈿の箱にしまい込んでいるのだが、おめかししたいときには必ず身につけた。
 少し長めの首飾りは中央に真珠(パール)と紅(カー)瑪瑙(ネリアン)でできた花が垂れ下がっていて、全体は同様に真珠と赤瑪瑙を鎖状に編み込んだ意匠になっている。何でも母に求婚した時、父が贈ったものだとか。
―その頃の給料半年分をはたいたんだ。高かったんだぞ。
 普段は金銭的なことは口にしない父が思わず洩らしたほどだった。
 凛花は父よりも母に似ているらしい。美人として求婚者も多かった母が何故、並み居る求婚者の中から父を選んだのか―、中には父よりもよほど眉目形も良く前途有望な若者もいたことだろう。
 凛花は父を大好きだけれど、かといって、父が女性にモテる類の男だと思ったことはない。
 よもや、この豪奢な首飾りに釣られたわけでもないだろう。
 父はけして男前でもないし、才気があるわけでもない。他人からは上に何とかがつくほどのお人好しだと陰口を叩かれているし、承政院では、息子ほども歳の違う若い副承旨たちに良いように顎で使われているようだ。
 唯一の取り柄といえば、その職務柄、非常に達筆だということくらいのものだ。
 だが、父は人間的な温かみがある人だった。屋敷に古くから奉公している家僕(奴婢)の死に涙し、残された遺族の生活に後々まで気を配ってやる。困って助けを求めてきた者を父が拒んだことは一度としてなかった。
 恐らく、母はそんな父の情の深さに惹かれたのではないかと思う。結局のところ、その人を好きになるのに、理屈や理由は要らない。
 ただ、相手に強く惹かれ、求める気持ちを人は恋や愛と呼ぶのだ。文龍はその点、父とよく似ていた。もっとも、文龍の名誉のために言っておくが、彼は父のように小柄で小太りではない。武官らしく鍛え抜かれた体軀は逞しく、引き締まっている。
 ひと昔前、皇秀龍は若い宮廷女官たちからの恋文が引きも切らなかったというほどの美貌の貴公子だった。父秀龍の若い頃を知っている人は文龍を見ると、〝父上にそっくりだ〟と愕くらしい。