ある恋愛話
「……は?」
私は間抜けに口を開け、目の前で俯いたままの恋人に目をやった。
私が呆然とするのは当然だ。ここは滅多に来ることのない高級レストラン。さらにいえば今日はクリスマス。周りはもちろんカップルで溢れているし、そのどれもが幸せそうに食事をしている。それはそうだ。この絶対に的なシチュエーションの中、絶望という顔をしている男と戸惑った顔をする女、なんて組み合わせはここにしかいない。
別れを告げるにしても、せめてこの場所でいうことじゃないだろ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。大事な話ってそれ?」
一週間前、クリスマスにこんな素敵な場所で食事することを誘われ、さらには大事な話があるということを聞き、期待しないわけがなかった。付き合って二年になる私たち。いい年だし、周りは結婚をしている友人ばかりだ。
男――明人は、首を横に振った。
「今日は僕、君にプロポーズしようと思っていたんだ」
暗い顔のまま、さらりと言われて戸惑ってしまう。確かに期待はしていたけど、こんな形で訊いては鼻白むのも仕方ないだろう。
「でも、駄目だった。やっぱり、僕なんかが君を幸せにできるわけがないよ。君にはもっといい男がいるはずだ」
やけに悲壮ぶった話し方をする目の前の恋人に、はあ、と私は深すぎる溜め息をついた。
やっぱりこいつの、悪い癖が出てしまったのか。
こいつはネガティブな思考を持った男だ。出会ったときから、その性格を変えていない。
むしろ昔はもっと酷かった。飲み会で出会ったこの男は、周りの軽い空気にまったく感化されずに、ずっと俯いていたままだった。帰りたい、というよりは、自分がここにいるのが申し訳ないというように、肩を狭める男。その姿を見て、ちょっと興味を持ったのがすべての始まりだった。
隣にいた友人にこっそりその男のことを聞くと、どうやらサークルでも有名なネガティブ男、らしい。詳しく聞いたわけではないが、とにかく後ろ向きな考えをしないという友人からの情報に、俯いたままの男はぴったりイメージが合わさった。
飲み会が終わり、皆でぞろぞろ二次会はどうするかと騒いでいたとき、どんどん逃げようとする猫背の背中に回り、挨拶のつもり――景気づけるつもりで、私は思いっきり背中にばしんと手の平を叩きつけた。
『もっと元気だしなよ!若いんだから!』
悪気なんか少しもなかった。しかし生来体も心も弱いこの男は、女の私に背中を叩かれて盛大に噎せてしまい、周りに笑われる事態に陥ってしまった。
さらにはそれをいじめだと思い込んだらしく、男は家に引き込もって出なくなり、大学にも来なくなってしまった。
それを共通の友人を通して知った私は、かすかな責任を感じて明人の家に行った。そして半ば強引に家に上がり込み、布団にもぐって逃げようとする明人をひっぱりだして出来るだけ優しく、私が背中を叩いたのはいじめではなく、励ましだったのだと説き伏せた。
よく考えるとそれほど親しくもない男によくそこまで出来たと思う。そのときから私はやっぱりこいつに惹かれるものがあったのだろうか。単純に面白そうだという好奇心からの理由もあるが。
あれから三年。何故だか私はこいつと付き合うことになり、もう慣れたつもりでいた。
「君との将来を考えると、君を不幸にする想像しかできない。そんなことは耐えられないんだ。それならいっそ今のうちに、別れたほうがいい。それがきっとお互いのためなんだ」
なのに、そのときこの男の言葉を聞いて、私は思わぬ感情に襲われた。
こんなことは、いつものことだった。
こいつが後ろ向きで最悪なことを言っても、私はからっと笑って吹き飛ばしてやる。そしたらこの男は、すぐに自分の言葉を撤回する。それがいつもの恒例のこと。
こいつだって、本心で思っているわけじゃない。分かっているのに。
この場所が悪いのか、このシチュエーションが悪いのか。どうしてもいつものように出来なかった。
私は打ちのめされていて、感情のままに声を出してしまっていた。
「私は今日、あんたに話があるっていわれて」
上手く言葉が出ないことに驚いた。私は言葉が震えないようにしなくてはいけなかった。
「それからの一週間」
あ、やばい。目が熱く…。泣きたくなんかないのに。
「あんたとの、明るい未来しか見えなかったよ」
――あんたは違うっていうの?
「帰る」
勝手に流れ落ちてきた涙を乱暴に拭って、私は鞄とコートをひっつかんだ。呆然としている明人と幸せに笑っている恋人たちを視界から振りきって、私は恋人たちの聖地から足早に立ち去ろうとした。
「――優子ちゃん!」
――いつも自身なさげにぼぞぼそ喋る男の、それは珍しい大声だった。
◆
十二月の冷たい風が直接あたると、本当に身も心も冷めるということが、あるのだと私はぼんやりと思う。涙はとまったが、塗れたままの頬が心寒さを感じさせる。
ずず、と私は鼻水をすする。
私だって、結婚に全然不安がないわけじゃない。不安になるときがある。
それを振り切れるのは、あんたとの今までの日々があるから。
だから、明るい未来を描けるのに。
「……馬鹿男」
それでも、どこか期待している私は、やっぱり前向きな女なのだろうか。
あの男が後ろ向きな考えを振り払い、私を追いかけてくれることを。
私の背中を押して、大丈夫だよと、何の根拠もなく、それでも力強く言ってくれることを。
「ほんと、馬鹿みたい」
私は息を吐いた。
――だけどもし。本当に後ろにいたら。
そうしたら、許してやろう、と決めた。
しかし私が心の準備をする前に、後ろから聞きなれた声が聞こえた気がして、私は振り向いた。